ESSAY

2013-04-07

寂しいといえる大人に。

「寂しい」ということを、きちんといえるオトナがぼくは好きです。子どものときには考えもしなかったけれど、オトナだってそりゃぁ寂しいときはあります。子どものときに、いつ頃からか、みんなといても、ともだちがたくさんいても、じぶんはひとりなんじゃないか、どれだけ仲が良い人がいても、側に誰かがいても、ひとりを感じてしまう。それを虚しく、寂しく思ってしまう、という時期がやってきます。そういう感覚を一切持たずに成長する人は、ぼくは基本的にはいないんじゃないかと思います。「自我」というものは、そういうものだからだと思うからです。

そしてもちろん、オトナになったからといって、この虚しさや寂しさが、なくなるわけではありません。むしろ、もっともっと、自由が手に入った分だけ、この「寂しい」という感情は出てきます。それでいい、かどうかはわかりませんが、そういうものだ、とは思います。

昨日四十代半ばの企業コンサルタントの方(男性)に、夕食をご馳走になりました。その中で彼は、世間的には成功をしているし、自由に、好きな仕事をして、たのしい人たちと一緒にご飯を食べたり遊んだりしているけれど、やっぱり「寂しい」ということをいっていました。ぼくはこの人はほんとにオトナだなぁと感心しました。その感情をちゃんと受け容れた状態で、どう生きるのか、日々を暮らしていくのか。その人はコンサルタントの中でも主に人間関係、つまり教育分野で活躍されているみたいだったので、なおさらこういう、じぶんの「寂しさ」と向き合っている人が「教育」を担当するのは、すごくいいなぁと思いました。

もし、じぶんが小学生のとき、中学生、高校生のときでも、こういう「寂しさ」は、いつまで経ってもあるぞ。オトナだってそこは変らないんだ。先生も、ときどきすごく寂しくなることはあるし、でもそういう感情と向き合っていくことも、すごく大事なことなんだ。と、言ってくれた先生がいたなら、ぼくはその先生のことを、きっとずっと忘れないだろうなぁという気がします。勉強は忘れても、そういうことは憶えているものです。

「じぶん」というものをしっかりと持っている人ほど、他の人との違いを考えて「寂しい」を感じるものです。だから「なんにも寂しくない」という人がもしいても、ぼくはその人に魅力を感じないでしょう。世界で活躍したり、がんばっている人の姿に、少し切なさみたいなものを感じるのは、そこに人一倍の「寂しい」があるからなのではないかしらん。ぼくはそう思ったりします。

イデトモタカ