ESSAY

2013-04-25

吝嗇(ケチ)というもの。

吝嗇(ケチ)というものは、厄介です。けっきょくのところ、ひどくなにかを誤解しているのだと思います。そう考えるのは、おそらくぼくのなかにもぼく特有の「ケチ性」があるからなわけでして、それは認識していますし、面倒だとも感じています。

ケチというものは、むやみにある対象を出し渋ったり、出し惜しんだりすることですが、つまりはその対象となるものとじぶんとの関係が、正常ではないということなのだと思います。なにを正常とするのかはわかりませんが、そこに少なからぬ「想い入れ」と呼ぶのか「ひずみ」と呼ぶのかそういうものが、あるのだということは言えるような気がします。

対象となるものはいろいろあります。一番の代表格は「お金」ですが、その他にも「知恵(アイディア)」だったり「時間」だったり、少し変り種では「賛同」というもののケチもあったりします。(ちなみにぼくには、それがあります。)

例えば「お金」というものに対してケチ性を持っている人というのは、漫画やドラマではたいてい貧乏人だったり反対にお金持ちとして描かれていることが多いです。なぜかと考えれば、やはりどちらにしても「お金」というものに対してその他の人、いわばふつうの人よりも「思うところ」がある、ということなのだと思います。特に、出し渋る、出し惜しみをするということは、それがその人にとって非常に重要なもの、もっといえば「パワー」であると考えているからこそ、そういう状態になるのだとぼくはにらんでいます。

「知恵(アイディア)」でも「時間」でも「賛同」でも、それをやすやすと手放さない、あるいは渡せない、なんともいえない抵抗があるという人は、つまりそれがその人のなかで大きな「意味」を持っているのだということです。これはたしかだと、実感としてぼくはいえます。けれど同時に、その意味付け、思い込みというものは、必ずしも正しくはないよ、ということも思います。

なにかのきっかけでケチになったり、はたまたケチがなおったりするわけでしょうが、そのあたりのことがまたわかってきたら、お伝えしたいなと思います。もしあなたのなかにある「ケチ性」と、その正体についてわかっていることがあるのなら、ぜひ教えていただけたらうれしいです。これはちょっとね、おもしろいテーマなんです。

イデトモタカ