ESSAY

2013-05-13

結果と向き合う怖さ。

小説家になりたいといいながら、まったくなんの物語も書かない人や、シンガーソングライターになるんだといって、ずっと一曲も作詞作曲しない人がいたとします。あなたは彼らを、どう思いますか。嘘つきだと片づけてしまうことは簡単ですが、そう単純な話ではないことがほとんどです。

なにかをやりたい、実現したいと思っているのに、実際の行動にはうつさない。そういうとき、人はどういう感情なのか。ぼくにはそんなところがあるので、何度も考える機会がありました。その結果わかったことは、一つにはやらない、あるいはそれが実現しないことにも隠れたメリットがあって、それが邪魔をしているということ。もう一つは、これも似ているというか、先の「隠れたメリット」の一つであるとも考えられますが、行動にうつさないことで、じぶんの実力、つまり出される結果と向き合わなくてもいい、のです。

反対からいえば、行動するということは、なんであれ結果が出るわけで、その出された結果から目を逸らすことは困難になります。例えば小説家になりたい人が、本当に物語を書き始めたなら、書き終えたなら、その出来上がったものと向き合うことになります。それが充分に満足できるものであればいうことなしですが、もしイマイチなできだったなら、人によってはガッカリしたり、失望したり、自己嫌悪したりするかもしれません。

シンガーソングライターにしても、一曲もつくらないうちには、じぶんの可能性や才能をどれだけ妄想のなかでふくらませても自由であり、否定もされません。けれど一曲つくった後には、現実と向き合うことになります。これはじぶんに対する「よくない期待」かもしれません。その感情が大きくなっていくにつれ、なにもしてはいないのに、足が踏み出せなくなります。そんな大げさな、と思われるかもしれないですが、人には現実を直視したくないがために、やりたいけどしていない、叶えたいけれど動かない夢や目標というものは、往々にしてあるものだと思うのです。

経験としてぼくは、大学生のときにはじめて小説を書き上げ、そして失望したことがあります。ああ、これがぼくの今の実力なのか、才能なのか、と。その頃から比べれば、文章も遥かに多く書きましたし、いくらかは良くなっているだろうとは思うのですが、やはり「怖さ」も消えずに残っています。じぶんはもっとできるはずという「よくない期待」があるゆえの怖さではあるのでしょうが。けれどこのじぶんの出した「結果」と正直に向き合い、改善し、修正し、再挑戦していける人が、いずれ天才と称されるのだろうなぁとも思います。ぼくもまだまだ、あきらめずに、書こうと思います。

じぶんと向き合う、じぶんの出した結果と向き合う、その上でどうするか、ですもんね。

イデトモタカ