ESSAY

2013-05-20

「切実さ」というモノサシ。

「切実さ」というものを基準にしてものごとを考えるようになってから、ずいぶんとクリアになったような気がします。つまり、必要以上に迷わなくなりました。

外国語ができたらかっこいいし、つかえそうだ。マーケティングの勉強はしておいて損はないだろう。一般教養程度には歴史を知っておかないと。本好きというからには古典的名著は読まないと。新しいウェブ技術に置いていかれないようにしなければ。

例えばですけれど、人はそういうことをつい思ったり考えたりします。そして、中途半端に取り組んでは途中でやめて、を繰り返して時間をいたずらに消費してしまいます。もちろんぼくにもそういうところはありまして、似たようなことをずいぶんと考えましたし、今でも頭によぎることはあるにはあるのです。昔はそれに、いちいち「どうしようか」と時によっては立ち止まっては真剣に考えたりもしていましたが、最近はそういうことがなくなりました。「切実さ」というモノサシを持つようにしたからです。

あらゆるものごとを、じぶんのなかの「切実さ」という尺度でもって測ってみたなら、おのずと解決案は出てきたりするものです。「切実」であれば、人はするのです。頼まれなくても、決意なんてたいそうなものがなくても。

その方針自体の良し悪しは置いておいて、会社の公用語が「英語」になると決まったなら、そしてじぶんは家族や子どもの生活を守るためにその会社で生き残ったり昇進したりするのだという想いがあったなら、きっとうんと勉強して必要水準まで達しますよ、英語。なにせうんと「切実」ですからさ。あるいはこれまで食事のマナーのことなんて一度も気にしたことがなかったとしても、初デートで大奮発してフレンチに行くとなったら、当日までに必死で勉強しますよ、マナー。

それが「学ぶ」ということであり、実際的に「生きる」ということであって、ひいては「身につくもの」なのだという実感があります。なので、運命のデートがあるわけでもないのにマナーの勉強でもしてみようかなとか、使う予定はまだないけれど英語の勉強をしようかなというのは、「意味が無い」とまではいいませんけれど、基本的に「やらなくてもいいんじゃない」とは思います。

切実でないことは、自然でないということで、大げさな言い方をすれば運命に従った行動ではなくて、それは人工的で、そこから素晴らしい未来につながるということは、ぼくの経験上はないような気がします。

イデトモタカ