ESSAY

2013-06-15

じぶんのための好き。

じぶんのために人を好きになるのなら、じぶんの幸福のために愛するのであれば、やはり浮気は許せないし嫉妬もするでしょう。なにせ、それらはじぶんの幸福の脅威ですから。危機の対象なのですから。

いや違う、わかっていない。そういうことをする人だったことが悲しいのだ。そういうことをする人を好きになったという、じぶんの見る目のなさが哀れなのだ。そう言う人もいるかもしれません。けれど、それにしてもやはり、じぶんのために人を好きになっているものです。じぶんの理想どおりに、思いどおりにならないことが、そういう相手でないことが、そう相手が動かないことが、苦しくて、辛いと感じているわけですから。

ぼくは浮気を肯定しているわけでも、嫉妬を否定しているわけでもありません。ただ、じぶんのために人を好きになっているのなら、それは客観的に理解しているほうがよいと思います。「わたしはこんなにも好きなのに」という、わけのわからない理屈に、情動に、振り回されることがなくなると思いますから。そうすると、生きるということが、ずいぶんとやさしくなるような気がします。

じぶんのために人を好きになることを、否定しません。けれど、前提に「じぶんのために」という、こちら側の都合を一歩踏み込んでいるのなら、そのためにどこかで一歩下がるということが、均衡を保つためにぼくは必要なのではないかと思います。あるいは、じぶんのために好きになっているのに、それを相手のためだと思い込んでいる場合は、もう伝えられることばはないのですけれど。

じぶんのためでなく、相手のためでもなく、ただその人を好きになる、愛しく想うということは、ぼくは願いや祈りのようなものではないかという気がします。ぼく自身が未熟なので、よくはわかりませんけれど。けれど、好きな人の幸福を願う、祈るということは、必ずしもじぶんの都合と一致するわけではないはずなのです。

あるいは、嫉妬されてうれしいというのもまた、じぶんのための「好き」なのでしょう。

イデトモタカ