ESSAY

2013-07-14

見えないものを見る方法。

見えないものを見る方法。たとえば「風」はたしかに存在しますが、ふだん目にすることはありません。そのものと対峙することはありません。でも、揺れる風鈴や草花をとおして、ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法。たとえば「数字」はたしかに存在しますが、実在するものではありません。「3」や「5」そのものと出会うことは一生に一度もありません。だれも見たことがありません。けれど、5つ並べられたトマトや、三つ葉のクローバーの花びらをとおして、ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法。たとえば「友情」はたしかに存在しますが、がっしりとつかむことができるかといえば、それはできません。特別なことがない限り、あるのだと信じているだけです。とはいえ本当にじぶんが困ったときに、もうお終いだというときに、かかってくる電話の着信画面や、かけつけてきてくれた車の姿に、ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法。たとえば「恋」はたしかに存在しますが、手の上の乗せることも、大事に箱にしまうこともできません。だったら、ないのではないか、といえば、そんなわけはないわけで。その見えないもののために人は生き、そして死んできたのですから。注意していないだけで、少女の赤らむ頬に、少年の震える指に、つまりいたるところに、ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法を、ぼくらはたくさん持っています。でも、だからといって、無理矢理に「見る」必要もありません。まして「見せろ」というものでもありません。見えないけれど、あるのだ。ほんとうは、その気もちだけでよかったりします。それだけでもう、あるのです。

イデトモタカ