ESSAY

2014-03-25

ともだちという人。

昔からとりわけ数字に強い、というわけではてんでないのですけれど、人の誕生日はなかなか忘れません。つまり、大切に考えているのだろうと思います。成長していくにつれ、じぶんの誕生日にも、家族やともだちの誕生日にも、ひどく無頓着な子に出会うことがあり、そのときはとても驚くと同時に、少し悲しくもなりました。もしかしたらじぶんの価値観を否定されたような気がしたのかもしれません。

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カレンダーでこの数字の並びを見て、ある人のことを思い出しました。高校三年生のときに同じクラスで、とても仲の良かった男の子のことです。今日は彼の誕生日です。

高校を卒業してから幾年月、一度もまともに会ったことはありません。なんどか携帯電話を買い換えるなかで連絡先もわからなくなってしまいました。探そうと必死になれば、それこそいまの時代、あんがい簡単に見つけられるのでしょうけれど、ぼくも(おそらくは)彼も、それを望んではいないように思います。

当時、ぼくは彼のことを親友のように感じていました。彼もそのように思っていてくれたのではないか、という思い上がりもあります。それでも、いま「ともだち」かと訊かれると、「ともだちだった」と答えるほかないような気がします。

たしかに、どれだけ離れていようが、連絡を取らずにいようが、数年ぶり、十数年ぶりに会ったとしてもきのうも会ったようなこころでいられる。そういう関係もあるでしょうし、仲もあるでしょう。それは噓ではないとも思います。

けれど、ぼくはあまりそういう感じがありません。少なくとも、ぼくと彼との「ともだち」は、当時にあって、いまにはないのだと思います。十年ぶりに会ったとしたら、ぼくはきっと、十年前の彼に話しかけてしまうでしょう。彼もまた、高校三年生の頃のぼくに話しかけてしまうでしょう。

そして、彼がもう昔の彼とはまったく同じではないように、ぼくもまた、あの頃のぼくとは違った人になっています。そうして、わずかな「ちぐはぐ」を感じるでしょう。昔あれだけ気が合った仲なのですから、再会したら、また知音になるかもしれません。けれど、それにしても、「あの頃の二人」になるわけではないのです。新しくまた、出会って、ともだちになった、ということに過ぎないのです。

おなじ人生の時間を、ずっと一緒に過せるともだち。そんな相手は、人生に一人いれば大の幸せものです。「いるぞ」という方は、ぜひ、大事にしてください。お金は失っても何度でも取り戻せますが、そういったともだちの喪失こそが、破産です。

誕生日おめでとう。いつまでも、どこかで、お元気で。

イデトモタカ