ESSAY

2014-07-30

満たすための不満。

やっているからといって、つづけているからといって、自動的に向上していくわけではないんだぜ、どんどん勝手にうまくなっていくわけではないんだぜということを、今日は言いたいわけです。

一般的には、ずっとやっていればその時間軸に比例して、実力なり、技術なり、能力なりが向上されていく、と思われているような気がします。こころのどこかで、そう感じているというか、信じていると思うのです。

でも、それは違うぜ、と。小さく、わずかには、繰り返していくことで、つづけていくことで、向上はしていくかもしれません。けれど、時間軸と比例してなんてほどの、目立った変化ではないように思われるのです。

そう考えるに至った理由は、日本にいる外国の方でした。彼らは見事な日本語を話しますが、不思議に思ったのです。もう日本に来て20年になる、というベテランの方でも、ずっと片言の日本語だったり、日本が大好きでまだ日本語を勉強し始めて4年だという人が、とても流暢に話せたりと、大きな差があります。でも、たいていの人はずっと片言のままです。

なぜか。ふつうに考えたなら、まだ4年しか日本語を話していない人よりも、20年日本語を使っている人のほうが、5倍とは言わないまでも、うんとずっと日本語が上手じゃないと、感覚的に変じゃないですか。でも現実は、そうじゃなかったりします。

もう一つの例として、ぼくはこういう文章を書き始めて、かれこれ5年くらいになります。残してある過去記事の、最初の方を読んでいただければわかると思うのですが、今よりずいぶんと文章が下手です。下手なりのよさや、着想のよさはあると思うのですけれど、ぼくは5年前のぼくよりも、多少ではあれ「書く」という技能が向上したように感じています。

それは、ただ書きつづけてきたから、もありますけれど、あるとき、毎日毎日2年か3年ほど、じぶんが尊敬する、すてきだなあと思う人の文章を書き写していました。いわゆる写経です。写経することで、ぼくの文章を変わったはずです。でも、いつしか満足をして、写経をやめてからは、ぼくの文章は時間を経ても、変わっていない気がします。

つまり、これだなと。「もっとうまくなりたい」という思いを持っているか。その違いが、すべてではないのかなと。先の日本語を話す外国の方の話にしても、片言であろうと、ある程度日本語が使えれば、その人の本当の目的は達成されるはずなのです。だから、それ以上成長しなくても、問題がない。だから、もっとうまくなりたいという思いなく使いつづけることになるので、そこに向上はない。不満がないのだから、それ以上は満たされない。

本当の職人という存在は、ただただ長期間、おなじことをしつづける人のことではなく、ずっとおなじことをしながらも、不満が永遠に消えない、「もっとうまくなりたい」「さらに向上したい」と思いつづけることができる人なのではないかと思います。そういうものに、ぼくもなりたい。

イデトモタカ