ESSAY

2014-11-04

死ににくく、生きにくい。

この世界はずいぶんと死ににくくなった。まだまだ飢餓や貧困で苦しんでいる国、紛争などで寿命の短い地域もあるけれど、それでもずいぶんとぼくらは死ににくくなった。

医療技術の発展や栄養のある食事だけがその理由ではない。どれだけぼくらが将来が不安だとか、老後が不安だ恐いといったところで、それは生活水準の問題がほとんどで、死なない程度に生きていくことは、まずこの国においては可能だ。充分に人を生かす社会になっているのだ。

けれどこれがまた、新たな問題を生んでいる。生んでいるのだと、ぼくは思う。そしてそれは「孤独」ではないかと思うのだ。

死ににくくなったということは、まず間違いのない事実だ。歴史上、人は今たぶん一番死ににくい。平均して、みんなが死ににくい。寿命をまっとうできるという意味では、これはとてもハッピーな世の中だ。

けれどその一方で、死ににくいということがたくさんの「孤独」を発生させている。

弱い動物は群れる。なぜか。生き延びる確率を上げるためだ。じぶん、ないし、種が生き延びる確率を上げるために、死にやすい生きものは群れをなす。

ぼくら人間もかつて、死にやすい生きものだったとき、群れをなして生きていた。家族や共同体の解釈がもっと広く大きく、群れをなすことでなんとか助け合って生き延びてきた。

でもそれが今は、一人でも死ににくい社会になった。死ににくいから、群れをつくる意味が生まれない。独りでも死なないのだから、いつまでも独りだ。

この世界は死ににくくなった分だけ、生きにくくなっている部分もあるのだと思う。食物連鎖の頂点に立ち、種が生き残るのに充分なカロリーを生産確保できるようになった人間は、死ににくくなった代償に、孤独になった。なんだか神話みたいだ。

孤独は人の基本、孤独は人の前提。それはわかる。ただ他人と接点のある孤独とない孤独は、どこか違う。

群れようぜ、とは思わない。でも、じぶんの「弱さ」はもっと出していい気がする。互いの「弱さ」が人をつなげるはずだから。

イデトモタカ