ESSAY

2015-01-30

じぶんの限界。

ぼくにはこれくらいが限界だ。わたしの限界はあれくらいだと自覚している。

そういうとなんだかじぶんのことを深く洞察し、わかっているクレバーな人、という感じがします。悪いことにそれを謙虚と勘違いしている場合もあります。けれどぼくは、とんだ大馬鹿者だと思います。

じぶんの限界をじぶんで決めてはいけない。

ということばを、一度くらい聞いたことがあるでしょう。誰が言い出したのかは知りませんけれど、ぼくも「もっともだ」と共感します。なぜなら、それが本当にクレバーで、謙虚な姿勢だと思うからです。

じぶんの限界をじぶんで決めているのは、あるいは悟っている(気になっている)というのは、ひじょうに傲慢なことに思われるのです。わたしはわたしのことを熟知している、と。

けれど実際には、いまのじぶんに見えるもの、聞こえるもの、考えられる範囲というのは、あくまでも「いまのじぶん」の枠組みの中でのことです。いい本を読んで、ものの見方が変われば、明日にでも見える景色が変わります。いい経験を積んで、価値観に深みが増せば、その瞬間から思考の内容が変化します。つまり、人はいつだって、いつからだって、激変する可能性を秘めています。

それを、いまのじぶんの価値観で、狭い範囲内の思考で、「じぶんの限界はおそらくこれくらいだ」なんてわかったような判断をくだすのは、じぶんのことを甚だ優秀だと勘違いしております。それはぼくにしてみれば、ひじょうに傲慢な姿勢です。

反対に謙虚な姿勢とは、じぶんはこれからどういう目にあって、どういう経験を積んで、本や人に出会って、どう変わっていくのかわからない。じぶんの限界は、いまのじぶんには見当もつかない。いまのじぶんでは見当もつかないところに、きっとじぶんの限界はある(あるいは限界はない)。だから、じぶんはこんなものだと、悟ったようなことは思うべきじゃない。……というものではないかと思われるのです。

じぶんの限界をじぶんで決めてはいけない。そういった人の本心がどこにあったのか、ぼくにはわかりようもないですが、ぼくはそんなふうに解釈しました。

謙虚であれと。そして、謙虚を履き違えるなと。

イデトモタカ