ESSAY

2015-03-17

中古人。

洋服の整理をしていました。少し増え過ぎているなと思ったので、この冬、あるいはその前の季節にほとんど袖を通さなかったものを、思い切って段ボールにつめて売却しました。内心は、ほとんど処分する覚悟でした。(最近は便利なもので、郵送で引き取ってくれます。)

デニムやジャケット、ニット、パーカー、ダウンなど、全部で11点でした。きょう、査定結果の電話がありました。正直まったく期待していませんでした。昔、古本屋に漫画を売ったとき、ため息が出るほどの二束三文で、がっかりした思い出が強かったからです。

けれど、今回はいい意味で期待を裏切られました。大学生のときに、一所懸命アルバイトをしていた際の月給よりも多かったのです。平静を装い「わかりました。お願いします」とただ言うことしかできず、値上げ交渉をしようなど、そんな気には微塵もなりませんでした。「では、明日ご指定の口座にお振り込みいたします。この度はご利用有り難うございました」

電話を切ってしばらく、不思議な気もちになりました。捨てるにはもったいないけど不要だから、二束三文でも引き取ってもらいたい。それぐらいの感覚だったのに。ぼくの「いらないもの」がこれから、誰かの「大切なもの」や「欠かせないもの」になるのかもしれません。なにせぼくにしても、中古で本を買ったり、古着の服を買って気に入って着ているわけですから。

そこで思ったのです。人だってそうだと。誰かに「もういらない」と捨てられたかと思えば、別の誰かに「一生もの」として愛される。誰かを「さようなら」と手放したかと思えば、その相手が別の誰かと「運命の出会い」をしている。

この世界は、人生は「縁」だというけれど、ほんとうにそうなのかもしれません。その時々で「合う」と「合わない」があり、そういったタイミングも含めて、この世界は、人生は「縁」なのかもしれないです。

良い悪いじゃない、高い安いじゃない、かっこいい、かっこよくないじゃない。じぶんとタイミングが「合う」か「合わない」か。

じぶんを中心に見るのと、縁を中心に見るのでは、世界の見え方は180度違います。

イデトモタカ