ESSAY

2015-04-29

通過。

いつだってじぶんが主人公のつもりでいるから、「わたしを通り過ぎていった人たち」という目線で過去の日々を見つめてしまいます。何気なく、さも当然のようにそうしているじぶんに、はたと気づくのです。

それは事実とは異なります。主観で人生と向き合っている時点でそれはもう、色眼鏡を通した世界なのです。つまり事実ではないのです。では、完全なる客観の歴史など存在するのかといえば、答えを持ち合わせてはおりません。

「わたしを通り過ぎていった人たち」は、実際には「わたしを置いていった人たち」かもしれません。「わたしについに呆れた人たち」である可能性もありますし「わたしから身を引いた人たち」なのかもしれません。なんにせよ、主観では「通り過ぎた」と思えても、一人ひとりは様々な感情を抱いているはずです。

あるいは、まったくの逆。こちらが勝手に色々となにかを思っているだけで、彼らはなにも特別な感情はないかもしれません。思い上がりも甚だしといわんばかりに。

「わたしを通り過ぎていった人たち」は誰にだっています。出会ったすべての人と今なお一緒にいるなんてことは、誰にも可能ではないはずですから。それは神様でさえ、不可能でしょう。これまでの人生で出会った一人ひとりといまだにみんな、たまに連絡を取って、会って、ご飯を食べて、仲良くやっているなんてこと、できないでしょう。

「わたし」は通り過ぎていくのです。誰かの人生を、さっと過ぎ去っていくだけの人。その一人ひとりが「わたし」です。置いていかれ、呆れられ、人知れず身を引かれ、忘れ去られるのが「わたし」です。また、置いていき、呆れ、そっと身を引き、忘れていくのが「わたし」です。

「わたしを通り過ぎていった人たち」へ。どうかお元気で。

「わたし」が通り過ぎていったみなさん。さようなら。

イデトモタカ