ESSAY

2016-01-02

忘れられる権利。

フェイスブックのようなSNSサービスを過去に利用していた人が、思うところがあって、やっぱり「やめる」となったとき、サービスの提供元に対して、じぶんのデータを残さずに完全に削除してほしいという旨の裁判があったそう。海外でのことだ。

いまや一度でもインターネット上に掲載された、あらゆる情報を完全に消し去ることは、容易ではなくなってきた。どこかになにかしらが残ってしまう場合が多い。データという完全なかたちではなくても、なんというか、そこに存在した匂いのようなものは、ぼくの勝手な思い込みかもしれないけれど、漂っているような気がする。

裁判を起こした人たちの言い分はこうだ。

「わたしたちには<忘れられる権利>があるはずだ。」

死にたいんじゃない。
いなくなりたいだけ。

映画や小説かなにかに出てきたことばだったと思う。ぼくにもその気もちは少しだけわかる。共感できる、というよりも、じぶんのなかにもそういう部分がある、のほうがより正確な表現かもしれない。

ほんとうにぼくらに<忘れられる権利>なるものがあるのかどうかは知らないし、わからない。(裁判は勝訴して、原告の希望は叶えられたそうだけど。)でもたしかに、じぶんがもう思い出したくない写真を、ずっと壁に貼られているのは、いい気がしない。剥がそうにも剥がせずに、他の人も見るのならなおさらに。

ぼくはこれまでに頻繁に携帯電話の番号を変えてきた。死にたいんじゃなくて、いなくなりたいと思うときが、一度や二度ではなくあったから。生まれた街を離れてまったく知らない場所で暮らしていこうと思うほどには、お金も勇気もなかったけれど。

ぼくの文章がそうさせるのか、ぼくの文体に引き寄せられるのか、ここを見つけてわざわざ来る人は、ぼくと似たような感性の人が多いような気がする。あなたが変わっているのか、ぼくにはわからないけれど、もしかするとぼくらは、忘れられたい者同士かもしれない。あるいは、じぶんという存在を更新しつづけたい者同士、かもしれない。

イデトモタカ