ESSAY

2016-05-18

孤独の差。

ぼくは偉そうに「文学」を語るほどの何者でもありませんので、なるほどそういう見方もあるのか程度にお聞きいただければ幸いですが、エンターテイメント性よりも芸術性といいますか、精神性に重きを置いている小説というものは、いわば作者と読者の孤独感の共有が重要です。

孤独感は人間の前提ですから、だれもが抱いて生きているものです。心理学の世界では、母親の体内から出て、へその緒が切られた瞬間から、人は他者との分離を経験し、孤独感がスタートするのだともいいます。

教育学者の齋藤孝さんはあるとき、村上春樹さんの小説に対して「僕の経験した孤独とは違う」というようなことをおっしゃっていました。ぼくはこのことばになるほど共感しました。

村上春樹さんの作品は初期のものは読みましたし、とても好きでもありました。けれどそれほど読まなくなってしまったのは、どこかで「ぼくの感じた孤独とは違う」と思ったからなのかもしれませんでした。

大人になっても孤独はありますが、幼少期、青年期、思春期に体験する孤独が、その人の孤独感の土台をつくるには違いありません。そしてそれは、最期まで大きく変わることはないのではないかと感じられます。

人と出会って、あるいは本と出合って、ふと相手の経験した孤独の一端が垣間見られることがあります。そのときに、ああ、じぶんと似ていると思うか、ぜんぜん違うものだと思うのか、偏見ともいえるそのモノサシは、けれどじぶんのなかで相手の居場所をつくるときに、大いなる参考となるものです。

文章を書いていて実感するのは、そういった本質的な「変えられない部分」は、隠そうと思っても出てしまうものなのだ、ということです。

つきなみな表現ですが、どれだけ抱き合っても、一緒に過ごしても、決して「ひとつ」にはなれないのが人間というものですから、孤独を癒やすための相手はなにであれだれであれ必要なのかもしれません。

「これはぼくの感じた孤独そのものだ」と思ってもらえるものが書けたなら、それは物書き冥利に尽きるといいますか、おこがましいようではありますが、だれかの魂を一時的にでも救済できたのではないか、と思われたりします。

そこにさらにユーモアがあれば言うことなしです。

イデトモタカ