ESSAY

2016-10-20

洒脱さ。

過去のじぶんを反省したり、恥ずかしくなったりするとき、思い返してみると、それらはみんな「力んでいた」に集約されそうですぼくの場合は。

言葉遣いでもそうですし、ファッションやお洒落でもそうです。立ち居振る舞いから、あらゆるものごとへの姿勢。それらが、力んでいたなと実感するときに、ああ、わずかでも成長したのかしらんと、思われたりします。

不思議なもので、「力み」とは見えるものです。視覚化されるものです。だからこそ逆説的に、力んでいない人を見たら、あの人は「慣れて」いるのだなと感心します。それは伝わってくるじぶんとの差や、実力のように感じられます。

「真剣」であることと、「力み」とは、似て非なるものです。真剣であることが、必ずしもすべてにおいて100%の力を出すこととは限りません。がちがちに、全身に力を入れて走っている人を見て、あの人は真剣だとはなかなか思いにくいものです。そして事実として、そういう具合で走っても、決して速くはありません(かなり控え目に言って)。

ファッションでも、力の入れ具合がわからない人は、靴も、ズボンも、ジャケットも、鞄もみんな、力いっぱいのものを着てしまいます。その姿を見せられた方は、声をかけるのが困難です。一方、力みがなく、うまく全体の調和をとりながらお洒落に見える人がいます。むしろ、真にお洒落な人というのは、ごくごく自然体であります。だからといって、彼(彼女)が真剣ではない、ということにはなりません。ここが肝心な部分です。

先に「力みは見える」と述べました。世間一般に知られた、肩に力を入れて持ち上げ、すとんと力を抜いて落とす、という、力みや緊張の抜き方があります。これは非常に有効です。一日に数回、意識的に行うだけで、無駄な力みが失われていきます。そしてそのうちに、なにごとに当たるにしても、真剣でありながら、力みなく挑めるようになります。

昨日は青春の話をしましたが、そういえば青春は、とても力んでいますね。そこがいいのですけれど、だからこそ凝りがしこりになり、ごろごろと、日常を複雑にするのかもしれません。力抜いていきませう。

イデトモタカ