ESSAY

2016-10-30

服装ュニケーション。

意識しない服装は、じぶんは「どういう人か」を伝えます。

意識された服装は、じぶんは「どうありたいのか」を主張します。

これは、見ればわかることです。この人は、こういう人なのだろうなということと、この人は、こうあろうとしているのだなということは。

ぼくの服装は、そうですね、7割くらいが「どういう人か」を伝えていて、残りの3割は「どうありたいのか」のメッセージとして機能しているように思います。

同じ服装しかしない人は、似たような具合ではないでしょうかね。

ただこの、「どういう人か」という服装と、「どうありたいのか」という服装の意識の線引というものは、なかなかに曖昧です。先に「見ればわかる」といっておきながら、曖昧だというのは矛盾しますけれど、わかる、といえばわかるし、曖昧だ、といえば、そうだな曖昧だなという感じです。

たとえば、「モテたい」というテーマで服を選んで着ている人というのは、「モテたい」人なのだな、とわかります。そういうメッセージは服装から伝わってきます。一方で、「モテる人でありたい」という、未来への希望として、願望としての主張も受けとることができます。

でも、服装に頓着のない人の服装は、「服装に頓着のない人だ」ということは判然としますが、「服装に無頓着な人でありたい」と望んでいるというふうにはふつう受けとりません。ここが、むつかしい部分ですね。

なんだか、ごわごわした話になってしまいましたが、服装は意識しなければ「どういう人か」を語り、意識次第では「どうありたいのか」を主張するものに成り得るのだということです。

あるいはその先に、なにも感じさせず、ただただ「かっこいい」という世界もあるのかもしれません。

イデトモタカ