ESSAY

2017-08-01

服の話。

受け入れること、可能性をひろげること。じぶんを深く知ること。こういった大事なことを、思えばぼくはファッションから学ばせてもらった気がする。

服は単体で見てすばらしくても、身につけてなおすばらしいかというと、必ずしもそうとは限らない。さらにそれが「じぶんが身につけて」となると、いっそうハードルは上がってしまう。

雑誌のモデルが着ているのを見て、いいなと思う。ショーウィンドウ越しに見て、いいなと思う。でもいざ着てみると、ちっとも似合っていない。ちっとも、うつくしくない。ファッションにはそういう部分がある。

一方で、似合うものもある。じぶんらしいもの、じぶんらしさを、いっそう引き出してくれるもの。そういうよくわからない経験を重ねていって、ぼくは「受け入れる」ことを学んだと思う。

ぼくには似合う色がある。同じように、似合わない色がある。似合うデザインがあれば、似合わないデザインもある。それは認めるべきだとぼくは思う。事実として受け入れるべきだとぼくは思う。

世間では苦手を克服することを、讃えたり褒めたりする。すごい、えらい、と言って、推奨する。でも、できなかったことができるようになることと、得意としないことを無理して成立させようとするのは、違うのではなかろうか。

あなたは桜のような淡い色が似合わないとして、でも深い海のような青はすごく似合うのなら、似合う青を大切に着ていけばいいはずだ。せっかく、愛されている色があるのに、苦手な色、似合わない色を克服するために努力をしたり、がんばったりすることに、どういう意味があるのかしらん。

可能性をひろげるというのは、淡い色も似合うようになることではないはずだ。深い色、海のような青の世界にいっそう潜り、そこでの追求を繰り返すことだとぼくは思う。それが、さらにじぶんを知ることになる。

わがままなのだろうけれど、ぼくは苦手な食べものをこれから先も無理して食べようとは思っていない。それよりも、好きな食べものの、もっとおいしいやつを探してうんと食べたい。それが可能性ではないのだろうか。嫌いな食べものが食べられるようになったとしても、それでひろがるぼくの人生の可能性を、ぼくはそれほどうれしいとは思わないしさ。

イデトモタカ