ESSAY

2018-03-28

祈りと呪い。

たった一つのことばとか、たった一回のできごととか、そういうものに影響されて人生が導かれていくことをぼくは否定しないし、むしろ積極的にいいとも思う。

それがネガティブなことであるなら、数ある人生のことばのなかの一つ、数ある人生のできごとのなかの一つ、として気にしなくていい。

それがポジティブなことであるなら、運命だとかってに解釈して、あるいはこれがメッセージなのだとかってに自信にして、都合のいい動機にしてしまえばいい。

ただどちらにせよ、そういったインパクトのあることばやできごとというものは祈りの部分の他に呪いの部分もある。

絵をほめられた。評価され、認められ、うれしかった。向いているといわれて、讃えられた。それが祈りとなって漫画家や画家を目指す人生はなにも間違っていない。

それが呪いとなって、いつまでも辞められずに止められずに漫画家や画家を目指し続けてしまう人生もまた、間違っていない。

中学生だか高校生だかのときに、読んだ星座占いの本があった。ぼくは双子座なのだけれど、そこには双子座はコミュニケーションが得意な星座で、書くことも向いていると書かれてあった。川端康成も太宰治も双子座だった。

双子座の適職の欄には聞き慣れないコピーライターという職業があった。もし物書きを目指すのなら、エッセイ、脚本、小説の順番に向いていると書かれていた。

あまり人に話したことはないけれど、名前も知らない有名でもない占い師の書いた「双子座の本」にぼくは祈られていて、呪われている。

でもどういうことになったとしても、筆を置かないのはその本のことばのお陰であるのかもしれない。

祝われて、祈られている人はその分、感じるか感じないかは別として、それが呪いになっていたりもする。光と影であり白と黒なのだ。

あなたの感じている呪いは、いつかは祈りだったのだ。いつかの祈りは、あるいは呪いにもなる。

わかったうえで、呪われればいい。意味などないのだ。あるのはぼくらの解釈だけで。

イデトモタカ