ESSAY

2011-03-06

ことばという容れ物。

ぼくらはまず、母親から、先生から、ことばという<容れ物>をもらいます。それは枠組みのようなもので、中身がなくても、使い道さえ知っていればふつうに使用することが可能です。

その後、もらい受けた<容れ物>をもって、時には使って、様々なことを見聞き経験し<中身>がどんどん埋まっていきます。一回で満タンになる<容れ物>もあれば、数回、数十回かけて徐々に埋まっていき、ようやくぴったりハマるものもあります。そうやって、満タンになった<容れ物>のことば、それが「じぶんのことば」としてほんとうに<使える>んじゃないか、と思うのです。

「ことばの解釈は人それぞれ」だとか、「ことばは絶対に誤解を生む」だとかは、<容れ物>が一緒でも、経験や知識からくる<中身>が必ず違うから起こることなのではないかしらん、と感じております。

この、中身がちゃんと詰まった<容れ物>こそが、「じぶんのことば」なのですけれど、それを増やしていくことが、ぼくは「すてきなこと」だと思っています。

むやみやたらに<容れ物>である枠組みだけをどんどん仕入れていっても、それは無意味ではないにせよ、「じぶんのことば」として使えないまま、仕舞いには「じぶんの話すことば」の中の「じぶんのことば」の割合が、どんどん減少していって、空っぽの話をする人になるのではないか、と思います。

とりわけビジネス界で量産される新しい<カタカナ語>。それを知っていなければ、<勉強不足>扱いをうけそうな風潮がありますが、「じぶんのことば」にならないうちにそういった<カタカナ語>を乱用し、「よくはわからないけど便利なことば」として、じぶんの中に蓄積されていくと、いつしか語彙が<カタカナ語>ばっかりになり、ぼくとしては、「よく喋っているけど、なにもいってない」というふうに感じてしまう人になる恐れがあります。

できるだけ「じぶんのことば」で話し、かつ「じぶんのことば」を増やしていく。どうやって増やすのかというと、やはり「ものごとを深く考える」ことだと思うんですよね。

そういえば、ぼくが<賢いひと>だと尊敬する方々というのは、みなさん共通して<やさしいことば>で話されます。それはきっと、「じぶんのことば」だけを信用しているからなのではないか、と書きながらそういう気がしてきました。

ことばというのはあくまでも<容れ物>で、じぶんが詰めた<中身>が伴って完成するものだという認識は、もっていても、きっと損はしないと思いますよー。

イデトモタカ