NOVEL

こうして僕は神になった。


      1


 男だろうか、女だろうか。
 時間まで、あと七分。
 やはり椅子側に座っていようか、けれどそれでは入り口に背を向けてしまう。壁と一体化したライムグリーンのソファーは横長く、地下鉄の座席のようだった。クッションは噛むと軽快な音を響かせるソーセージのように膨み、ちっとも沈まない。背凭れも限界まで空気を入れた風船のようで、休まらない。
 色が薄くなったオレンジジュースのグラスを持ち上げると、円いコースターもついてきた。指の腹が水滴で濡れる。ストローの位置を調整するためにグラスを揺らし、氷を動かす。コースターがテーブルの上に未練がましく落ちた。
 聴き覚えのあるイントロが、いくつもの間接照明にまぎれ、天井から吊るされたBOSEの白いスピーカーから流れてくる。雷雨のようなギターリフ。イギリスのバンドだ。曲名が思い出せない。
 携帯電話の画面が光り、低いモーター音を発しながら、テーブルの上で断続的に振動する。緑色の「着信」の文字の下には、幅いっぱいに「大家さん」と呼び出し主の名前が表示されていた。ひっくり返り、もがいているカナブンを眺めるように、ただじっと見る。動きが止まり、でかでかと表示されていた「大家さん」の文字が数分の一のサイズになったところで、携帯電話を取り上げた。着信履歴は上から全て赤字で、大家さん、タカハシ、大家さん、税務署、年金事務所、大家さん――。
 また電話が鳴る。
 画面に表示されたのは「タカハシ」の四文字。フィリピン人との偽装結婚の件だろう。冗談半分、興味半分で話を聞いたつもりが、このままだと本当に世話になる可能性もなくはない、が、ぎりぎりまで保留にしたいので、いまは無視する。
 絶えず視界の端で捉えていたガラスの扉が、内向きに開く。
 女。
 若くはない。歩幅を調整しながらゆったりと顔を左右に動かしている――何かを探しているように。レジを抜け、近寄る店員を手で制し、僕の席から入り口までの中間点に来た。
 目が合う。
 僕も逸らさない。
 凝視していなければ見逃してしまうほどわずかに、女の口角が引き上がる。四十代半ばくらいだろうか。大きくウェーブした胡桃色の髪はボリュームがあり、意志の強そうな角張った鼻の印象をいくらかだけ和らげている。シャツの上から羽織った鉄紺のトレンチコートはバーバリーで、前につき出した第二釦が、執拗に所有者が女性であることを主張していた。ベージュのパンツは踝丈。黒光りするパンプスの靴底は、マリリン・モンローの唇のように赤い。雑に持った鞄は黒のサンローラン。
「あなたがウールさん?」
 正面の椅子に手をかける。
「はい」
 立ち上がり、手相を見せるような仕種で席をすすめる。百貨店の化粧品売り場のような匂い。眉間に力が入らないように注意する。
 眼鏡の女の子の店員がそばに来て、おしぼりと水の入ったグラスを置く。
「アイスコーヒーを」
 メニューを受け取りもしなければ、店員の顔を見ることもなく、僕のファンだとメールを送ってきた女は言った。
 デッサンモデルのように、テーブルに片肘をつき、ゆるく握られた拳に丈夫そうな頬骨を乗せる。
 対面して二分足らず。
 第一印象は――センス良く見せたがる金持ち、仕事ができる自分に酔っていそう、残念人面岩。

「はじめまして、オーロ・プロダクションの八樹です。漢数字の八に、樹木の木じゃなくて樹の方で、八樹。珍しいでしょう?」
 なにが誇らしいのか、メールの送り主は不愉快な姿勢のまま、さらに顎を上げて言った。
「そうですね」
 気にしているだろうモアイ像のような鼻を、じっと見つめながら返事をする。抑揚なく。けれど一回りは上に見える八樹と名乗った女の目は、一切の弱みも映しださない。
「想像していたよりずっと男前で、驚いちゃった。ハーフ、ではないわよね?」
「母親が鹿児島なんです。八樹さんもお綺麗ですね」
「あら、なにも出ないわよ?」
 僕は朝の連続テレビ小説に大抜擢された、新人女優を思い浮かべながら言う。八樹さんは目を細める。
「どうして、ウールさんっていうの?」
 手でも触ってきかねない話し方、態度、距離感。テーブルに置いていた手を、そっと太腿の上に移動させながら答える。
「本名が、曜日の日に辻斬りの辻で、日辻なんです。漢字は平凡なんですけど、音にするとヒツジですから。高校で誰かが呼び始めました」
「シープじゃなくて?」
「馬鹿な高校だったんで」
「なら、私はヤギだからカシミアね」
 そう言って八樹さんは、思いがけない幸運に出合ったとき少女がするように、手を合わせて笑った。僕は目を伏せる。
 ゴートのほうがお似合いですよ。
 反射的に浮かんだ一言は、寸前のところで呑みこんだ。
 眼鏡の女の子がアイスコーヒーを運んでくる。緑色のストローを自分好みの角度に曲げ直すと、一吸いして八樹さんは言った。
「大人同士だから、日辻さんと呼んでいいかしら?」
「どうぞ」
「あ、私のことはカシミアさんでもいいわよ?」
 聞こえなかったふりをする。まったく気にする様子はなく、八樹さんは言葉をつづける。
「どう辿り着いたのかは憶えていないけど、読ませてもらったの、日辻さんのブログ。ほとんどぜんぶ。で、すぐにメールしたの」
 まだ、読めない。意図。
「とっても感心したのよ。面白いなあ、上手だなあって」
「ありがとうございます」
「本当に、素晴らしい才能よ――あたかも、自分に才能があるかのように見せるなんて」
 僕は止まる。
 女の口角だけが、静止した世界でもう一段、引き上がる。

「なかなかできることじゃないわ。それは才能よ」
 十数分前に顔を合わせたばかりの女の口調は、僕を糾弾したいわけではないらしかった。それどころか、フェルメールの絵画に与えるような眼差しを注ぐ。
「ご用件は、何ですか?」
 ブログからお金を得ているわけではない。騙しているかもしれないけれど、僕が不当に奪っているものがあるとするなら、安い尊敬の念だけだ。サバンナで、ライオンと目が合ったゴリラのような気分。襲われることはない、はず。でも奥歯と拳には力が入る。
「お仕事はなにをされてるの?」
 回答は後にまわされた。趣旨が判然とせず、明らかな敵意を示すわけにもいかないので、仕方なく先に答える。
「ウェブ関係で、適当に」
「例えば?」
「デザインの仕事を受けたり、ホームページを作ったり。あとは、せどりや転売なんかも少し」
 八樹さんは感心した素振りで、二度頷く。
「どういうものを探して売るの?」
「流行りのトレーディングカード、あとはブランド品も」
「じゃあ、私も値踏みされてたってわけね?」
 そう言って八樹さんは左手でグラスを持ち上げると、緑色のストローに口をつけ、幸せそうに焦げ茶色の液体を吸い上げる。中指にした指輪はカルティエだった。薬指にはなにも。
「あの、ご用件は、何ですか?」
 再度訊く。腕時計を気にする演技も加えて。
 八樹さんはグラスを置くと、狭いテーブルに両肘をつき、祈るように指を絡めて前傾になる。
「代わりに、成功していただけないかしら?」
 思わず右耳を突き出すかたちで、前のめりになる。
「富と名声を手に入れてほしいのよ。みんなの代表として」
「みんな?」
「どう?」
 何の話をしているのか。
 そして眼前の女は、特徴的な鼻をさらに近づけて、言った。
「神様にならない?」
――あ。
 ギターリフ。
 掠れた声。
 忘れていた曲のタイトルを、なぜか今、思い出す。
 そうだ。
 You are you, I am God(きみはきみ、僕は神)


      2


 半年前、きっかり四月一日からブログを始めた。
 タイトルは『脱走ヒツジの人生観』。
 書こうと思った強い動機や目的はない。気に入った本や雑貨の紹介でもして、小遣いの足しになればいいと思ったのと、春だから。そしてあわよくば、なにかいいことが起こるのではないかという期待から――いいことの内容は曖昧だったものの、四十過ぎのおばさんと出会うためではなかった。
 考えていることを書けばいい。そう安易に思っていたけれど、いざ始めてみると、一ヶ月と経ずに話題が尽きた。そのうえ自分でも誰が読むのかと呆れるほど、思想や人生観からはほど遠い、浅い感想の集まりでしかなかった。歯ごたえもなければ、味もしない。当然読者などつくわけがない。
 書くネタもなくなった頃、読んだ本の線を引いた部分を、ほんの少しだけ言葉を変えて、そのまま載せた。自力で到達した、自分の意見であるかのように。無理やり過去の経験にこじつけて――引用とは明かしていない。
 記事にコメントがついた。はじめてのことだった。
「とても勉強になりました。面白かったです、また読みに来ます」
 アヤ、というハンドルネームの人だった。一度読めば記憶できるほどの短い感想を、一日に何度も読み返した。
 罪悪感がなかったわけではない。それでも認められるという刺激は、なにものにも替え難かった。
 僕はこれまで以上に本を読み、世界の見方が変わるような、はっとする言葉を探しては、自分の哲学、人生観のように披露した。
 広告収入など、どうでもよくなっていた。
 他人の褌だろうが、借り物の言葉だろうが、――ちょっとした労力で――見知らぬ人から感謝され、尊敬される人生を、手放せるわけがなかった。
 とはいえ、一般人のブログが急激に読者を増やすわけはなく、だからかどうか、パクりだ盗作だなどと声を荒げる人も出なかった。
 読書量は増え、人の言葉が僕の言葉になり、過去や記憶は都合良く捏ち上げられた。他人の才能は僕の才能だった。数百人といない僕の読者にとっては。

――神様にならない?
 三日前、カフェでそう誘われた僕は、みぞおちを殴られたように、口を半開きにしたまま言葉も息も出せないでいた。
「ごめんなさい、神様は少し言い過ぎだったかも」
 自分の調合した劇薬の出来に、うっとりする魔女のような目で、八樹さんは話しはじめる。返事を待つ気はないらしい。質問ではなかったようだ。僕は呼吸を再開する。
「ゴーストライターは、知っているわよね?」
 ゆっくりと、カメが頭をのばすように頷く。
「彼らは才能がない……というと語弊があるかしら。まあ、少なくとも文才がない芸能人や有名人の代わりに、文章を書いて世の中に本を出す。言わば影武者ね。決してスポットライトが当たることのない人たち」
 それが、なにか。
「可哀想だと思う? 不遇だと思う? でもね、世の中には才能に満ち溢れていても、他者からの注目を望まない人種もいるの。目立つことは可能性を広げる一方で、生活のなかに制限もつくるから。他にも理由は様々。純粋に作品を生み出すことにしか興味がなかったり、見た目にコンプレックスがあったり、口下手だったり、極度の対人恐怖症だったりね」
 それが、なにか?
「それにね、才能の賞味期限がどんどん短くなっているの。だから一度スポットライトが自分に向いたからって、いつどんな理由で次のシンデレラが現れて、舞台からの退場を言い渡されるかわからない。これってね、正直本人だけじゃなく、プロデュースする側としても苦い問題なのよ」
 化粧品や健康食品の紹介をする、インフォマーシャルの司会者さながら、八樹さんは幾分表情に感情をこめて語りつづける。
「あの、話が見えないんですが」
 言っていることはわかる。
 言いたいことがわからない。
 八樹さんはコーヒーではなく、水の入った――氷がほとんど解けた――グラスを持ち上げると口につけ、底が見えるほど傾けた。グラスの結露で濡れた指先を、気にする様子なく両手を合わせると、声のトーンを落として呟いた。
「つまり、ゴールドを探しているの?」
 ……ゴールド?
「ゴーストの逆。才能ある人たちの代わりに、表舞台に立ち、彼ら本人であるかのように振る舞う人。影武者ならぬ表武者。本当は才能なんてないのに、あたかも全部自分の才能であるかのようにスポットライトを浴び、スキャンダルに晒される存在――ゴールドという名称は、私が勝手につけたものだけど」
 つまり――。
「ならない? 天才に。神様に。すべての才能を統べる存在に」
 考えたことも、ない。
「あなたなら、最高のゴールドになるわ。才能がある」
 僕の、才能。
 三十年近く、ずっと、ぼんやりと、何だろうか、あるのだろうかと、探していたもの。千に一回、万に一回でも、流れ星が見られるかもしれないと、見上げた排気ガスで曇った夜空。けれど叶ったことは一度もない。それでも、星の出ている夜には、眺めずにはいられない。期待せずにはいられない。僕にとって、僕自身の才能は、そういう報われない対象だった。見つかりそうで、決して見つからない対象。他の人が見たと言って、他の場所で見られたと聞いて、ただ羨ましがるしかない対象。
 ほとんど透明に近いオレンジジュースのグラスを持ち上げ、ストローでわずかな液体を吸い上げる。テーブルにへばりついたコースターは、ふやけて湯葉のようだった。
「いま返事はできないと思うけど、あまり待てないの。三日後にまた会えるかしら? ここに、同じ時間で」
 八樹さんはそう言うと、伝票をつかみ席を立つ。
「わかりました」
 泥酔したときのような、浮遊感のある思考のなか、ほとんど反射的に返事をする。
 グラスを置いたときには、八樹さんはもう扉の前だった。
 才能。
 才能。
 それが、僕の、才能?

      *

 腕時計に目を遣る。
 ガラスの扉を押して入る。
 次は僕が探す側だった。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
――見つかる。
 同じ位置。前に僕が座っていたソファー席で、電話をしている。眼鏡をした女の子の店員の「一名様でしょうか?」を軽く手を挙げて制し、真っ直ぐ進んでいく。
 八樹さんは僕に気づくなり、なにか短く呟き、携帯電話を握る手を下げた。光沢のある黒いジャケット姿。
「時間ぴったりね。どうぞ座って」
 僕は目礼をして椅子を引く。おしぼりとメニューを受け取り、生搾りオレンジジュースを注文する。店員が去っていくまでじっくりと待ち、言った。
「まだ、よくわかっていませんが、興味はあります」
 準備していた台詞。三日間、考えるといっても、なにをどう秤にかければいいのかわからなかった。だから最初の印象のまま、今日を迎えた。「ゴールド」という呼び名はともかく、そういった職業があるのかどうかは調べたものの、無論なにも出てこなかった。
 結果、再会するまでに決めたのは、契約料などの名目で、先にお金を要求されたら、断ろうということだけだった。
 八樹さんは微笑から表情を変えないまま、鞄から紙を一枚取り出し、テーブルに置く。
「話をする前に、サインしてもらえるかしら」
 内ポケットから小指よりも細いボールペン――ボディはシルバーで先端と上部がゴールドの――を抜き出し、紙の上に乗せる。
 秘密保持契約書。
 明朝体で印字された大きな文字を黙読すると、僕は下げた目線を持ち上げ、八樹さんを見た。一呼吸後に、目を紙の上に戻し、ペンを手に取る。ボールペンはカルティエだった。上部を回転させて芯を出す。上下左右に十分な余白をとった、第五条まであるシンプルな契約書の文字を、目でなぞっていく。
「形式的なものだから、あまり気にしないで。これから聞く話と、前回の話は他言無用よ、というだけだから」
 見たところ本当に簡易な契約書で、理不尽な点も見当たらなかった。右下の下線部にサインをする。ボールペンの芯を戻し、百八十度回転させた紙と一緒に返す。
「ありがとう。では、本題」
 医者からカルテを受け取った看護師のように、契約書を丁寧にファイルへしまう。
「あなたにはゴールドになってほしい。世の中には秀でた才能を持ちながら、人前には出たくないという人がいる。彼らの代わり身になって、彼ら自身であるかのように人前で演じる役割」
「彼ら、というのは」
「一人じゃないわ。慣れるまでは一人のゴールドに集中してもらうけど、その後は二人、三人と増やしていく予定よ。いろんな人が、いろんな才能を持っているより、一人の人がジャンルの違うたくさんの――それも一流の――才能を持っている方が、世間にはインパクトがあるし、各才能の耐用年数も延びるから」
 八樹さんの視線が僕から外れ、流暢な言葉も止まる。
「お待たせいたしました、生搾りオレンジジュースです」
 テーブルに円いコースターと、白い薄紙に包まれたストロー、向日葵色の液体で満たされたグラスが置かれる。紙を突き破り、バランスの悪いN字型にストローを曲げて差す。店員が去っていく。
「いいんですか? その、こんな場所で話して」
「大丈夫よ。注意はしているし、それに」
 顔を、大きな鼻を、近づけて言う。
「わからないわよ、断片だけ聞いても。こんな話」
 何の匂いかはわからない。いい匂いだとも思わない。ただ、高級だといわんばかりの匂い。返事はせず、体を椅子の背凭れに倒し、ストローから冷えた液体を口いっぱいに吸う。
「前に言ったけど、ゴールドはあらゆる才能を統べる存在。そういう意味では神様かしらね。でも、ゴールドに意思があってはいけないの。全員のオリジナリティの結晶がゴールドであって、ゴールドにオリジナリティや個性は不要。ただの操り人形。でも、もしそうやって、自分の可能性を捨てられるというのなら、素晴らしい世界の住人になれるわ。名声を独占できる。もちろん多大な富も」
「操り人形だなんて、正直ですね」
「完全に理解――してもらうことは、現実の経験なしには不可能だけれど、話と違うと後で泣かれても困るのよ。だから全部伝えているの。きっと、ほしいものはみんな手に入るわ。でも、その代償は小さくないのよ。あなたは、唯一、あなたでいることだけが許されないのだから」
 目を閉じて想像する。アイデンティティと引き換えに、天才としての人生を得る。楽して成功する、というのとは違う。自分ではない、他の誰かとして生きるという才能を発揮して、金と羨望を手に入れる。成功するほど別人になり、別人になりきるほど世界から尊ばれる――頭では理解できても、けれど今ここで体感することなどできはしなかった。
 悪魔、なのだろうか。
 八樹と名乗り、接触してきた目の前の女は、人の姿を模した、人の慾を喰らう悪魔ではなかろうか。これは、悪魔の取引。
 誰かが言っていた。
 悪魔は人のなかにいる。金や、見栄や、慾と引き換えに、あなたから大切なものを奪っていく。悪魔はときに友人の姿をしている。ときに美女であったりもする。あるいは、四十代の馴れ馴れしい鼻の角張った女の場合も。
「どうかしら、これでもまだ、興味があると言える?」
 声は「ノー」と言わせたがっているかのようだった。スピーカーから、またあのギターリフが流れてくる。耳をそばだてる。きみはきみ、僕は……。
「オリジナリティを認められたことなんて、ありませんでした。誰かが僕に、個性を期待したことも」
 なぜほとんど初対面の相手に、話そうと思ったのかはわからない。自分に聞かせたかったのかもしれない。
「幼稚園のとき、絵を描いていたんです。多目的室のような場所の床に、それぞれ画用紙を広げて。その日はたっぷりの水で溶かした絵の具を使って、垂直にした筆先からぽたぽた垂らすように描くのがテーマでした。僕もはじめはそのとおりにしていたんですけど、途中で、これは筆を持っている手を、反対の手でとんとん叩くとより面白いんじゃないかと気づいたんです。それでやってみたら、白い画用紙に、自分の予想外の線や点ができる。これはいいぞ、と自分の発想に感心しました。すると先生が近づいてきて、自分の発見をほめられるとばかり思っていたら、叱られたんです。そんなことは教えてない、言うとおりにできない駄目な子だって――。翌週、また絵を描く時間がありました。今度は夜の世界がテーマでした。それで、星を描こうとしたときに、そうだ、先週やった方法で、筆先からぽたぽた黄色い絵の具を落として星にしようとひらめきました。これは名案だぞと、はりきってやっていたら、また先生が来て、それは今日はやらなくていいの、と筆を取り上げられました。がっかりしましたよ。考えちゃいけないんだ、言われたこと以外する僕は、出来ない子なんだって」
 伏せていた目を上げる。顔見知りだった野良猫が、保健所につれていかれたと聞かされたような顔を、八樹さんはしていた。
「すみません。意味わからないですよね」
「聞かせて」
 八樹さんはまばたきもせず、僕を、あるいは僕のなかのなにかを見つめている。太腿の上に広げて置いた、掌の皺を眺める。記憶を濾紙にかけ、二十年前を抽出する。
「それでも、絵を描くのは好きだったんです。小学校でも図工の時間が一番好きで。一年生か二年生のとき、クラスで飼っていたザリガニを描くことになりました。みんなは図鑑のイラストみたいに、画用紙の真ん中に横向きで描いたり、上から見た姿を描いたりしていました。僕は一緒じゃつまらないと思ったので、画用紙を斜めにつかって描いたんです。しかも目一杯大きく、尾が見切れるくらいに。それを見た先生は、新品の画用紙を持ってきて、他の人と同じように描き直せって言いました。教室の後ろに貼ったとき、僕の絵だけ目立つからって。僕は仕方なく、ザリガニじゃなく、隣の藤沢君の絵を見てそのまま描きました。次の週、今度は模型を見ながら馬の絵を描くことになりました。そうしたら、前に見ていたのか、没にされた僕のザリガニの絵と同じ構図で、藤沢君が馬の絵を描いたんです。それを見た周りの子たちも、同じように描き始めて、斜めに描くのが流行りました。そしたら先生も、藤沢が考えたんだ、藤沢はすごいと言って褒めました。僕は声を殺して泣いたんですけど、どうしたのって言われても、伝えられる言葉を持っていなくて。悔しくて、虚しくて、それからは自分の発想は捨てました。認められているものを真似するようにしました。想定された答えが見えているときは、相手の答えに合わせるように自分を変化させました。そうしたら、誰も僕を叱らなくなりました。頭がいい、すごいと褒めてくれました。大人になった今も、他の人がうまくいった、儲かったというビジネスを、適当に真似しているだけです。それほど食えてもないんですけど」
 まあ、と、できるだけ明るく、息を吐く。
「そんなところです。僕は、僕をずっと昔に放棄しましたから。別に誰として生きたって、誰になったって、構いません」
 八樹さんは壊れたように動かない。
「やります、ゴールド。お金たくさん、いただけるのなら」
 語り継がれている物語のなかで、人が悪魔との契約を断りきれた話なんて、あるのだろうか。


      3


 やります、と言ってからも、八樹さんは念を押してきた。不思議な悪魔だと思った。
「それでもやる?」
 一つの注意や犠牲を確認するたび、繰り返し訊いた。
「はい」
 同じだけ、僕は首を縦に振った。
 罰則、違約金、契約条項、すべての説明を終え、鞄から新たに出された契約書にサインをしたのは、やりますと答えてから、さらに一時間半も後のことだった。その間には他に実家暮らしかどうか、親しい友人の数や恋人の有無などの交友関係、親兄弟、親戚と連絡を取る頻度などを事細かに訊かれた。理由は――。
「あなたの名前、考えておくけど、候補があれば言ってね」
 僕は名前からして変わるそうだ。親につけてもらった名前も捨てて、本当に、誰でもなくなる。そして僕はいなくなる。
「あ、そうそう」
 席を立とうとした八樹さんは、手土産を渡し忘れていたかのような口調で、鞄から茶封筒を抜きだした。封はしておらず、契約書の控えにしては厚い。
「忙しくなるから、時間、これで空けておいて」
 手渡される。あの、という声を出す間もなく、八樹さんはひったくるように伝票をつかむと足早に去った。
 指に力を入れる。封筒の中身はわずかに収縮した。まさかと思い中を覗く。
 壱万円札の束。
 十、二十――一ヶ月分の生活費以上は少なくともあった。
 取引成立。
 僕は自分がなにを差し出したのか、きっと、わかっていない。そんなに悪魔が欲しがるようなもの、これだけのお金が惜しくないものを、売り渡した気がまるでしなかった。
 息をつき、封筒を鞄にしまってから、隣の席に人がいること、邦楽が流れていること、冷房がききすぎていることに気がついた。

 翌々日、午前十時五分前。指定された場所に着いた。
 昨晩「打ち合わせの件」という件名で、時間と住所の書かれたメールが届いた。来てみると、駅裏の細い路地の一角にある雑居ビルだった。隣接する印鑑屋はシャッターが閉まっていて、昼になっても、明日になっても、開店する気配はなさそうだった。鉄製の看板には所々血が滲んだような赤錆がひろがっている。雑居ビルの入口に銀色の集合ポストが見える。名前があるのは三階B、OP会議室だけだった。
 再三確認をしても、ここで間違いはない。降りてくる人を待っていなければならないほど狭い階段は、建物自体の奥行きがないためか、老人の来訪を拒絶するかのような急勾配だった。
 もうじき時間になる。大きめに鼻から息を吐き、階段に足をかけ三階を目指す。ゴミはなく埃も目立たない。それでも清潔というには古すぎた。
 三階Bは階段を登ってすぐ右手の部屋だった。ステンレス製のドアは上三分の一が磨りガラスになっていて、正方形に黄色く光っている。ノックをし、ドアノブを回す。
「おはようござい、ます」
 部屋では八樹さんが一人パイプ椅子に腰掛け、打ち合わせ資料にしては膨大過ぎる紙の束に目を落としていた。
 八樹さんは束を閉じ、振り返る。
「どうぞ、座って」
 十二畳くらいだろうか、サイコロのような空間。外観からは意外なほど天井が高く、階段の異常な傾斜にも納得がいった。床も、天井も、壁も白。病室のような冷たい白さではなく、手入れの行き届いた学校のような、人の記憶の匂いがする白さ。左の壁にだけ、横向きにしたアイドルポスターほどの小窓があり、隣のビルの鉛色の壁の一部を切り抜いている。中央に置かれたキャスター付きの会議用テーブルが、空間の大半を占拠しており、パイプ椅子は向い合わせに二脚ずつセットされていた。
「失礼します……」
 勧められるまま正面に座る。僕の体重を受けとめたパイプ椅子は短く、きい、と声を漏らした。
「さっそくなんだけど――」
 八樹さんは先ほどまで読んでいた、右肩を黒紐で綴じた紙の束を僕の目の前に置く。卒業論文を思い出すほどの厚み。表題を読む。
『嘘か真か』
 中央右に、明朝体の大きな文字で、たったそれだけが縦に書かれている。一枚めくる。これは――。
「小説よ。読んで理解しておいて」
「理解、ですか」
「それとこれも」
 椅子に置いてあった本三冊をテーブルに乗せ、僕に向かって押し寄せる。背表紙に目を走らせる。『寝ながら学べる文学史』『小説の書きかた超入門 7つのレッスン』『こうして私はデビューした! 人気小説家8人の自伝的エッセイ集』。
「じゃあ、私もう行かないといけないの。十九時頃には戻ってこられると思うから、それまでしっかり勉強していて。あとここの鍵。お昼にもし外に出るなら、念のため鍵は閉めて行ってね」
 八樹さんは立ち上がりながら銀色の長細い鍵を、積まれた本の上に乗せる。訊きたいことは山ほどあったけれど、八樹さんの背中はもうドアの手前まで近づいていた。混乱する頭をまわす。この状況で重要なこと――。
「これ、誰が書いた小説ですか?」
『嘘か真か』と書かれた紙の束を指差し、早口に言った。
 滑らかな動作はそのままに、首から上だけで振り返る。唇の隙間から、いやに白い歯がのぞく。
「あなたよ」
 ドアが閉まり、階段を降りる足音が遠ざかっていく。

 十九時を十分ばかり過ぎたとき、一定のリズムで階段を上ってくる足音が聞こえてきた。磨りガラス越しに人影を認める。
「お待たせ」
 声とともに八樹さんがドアを開けて入ってきた。片手に鞄、片手にモスバーガーのロゴが付いた茶色の紙袋を持っている。
 僕は『寝ながら学べる文学史』の本を逆さまにして伏せ、立ち上がる。
「お腹空いてる?」
「はい」
 テーブルの真ん中にモスバーガーの紙袋を置くと、八樹さんは手際よく中からテリヤキバーガー二つ、ポテト二つを取り出した。僕も紙袋に手をつっこみ、ドリンク二つとストローと紙ナプキンを抜きだす。
「オレンジジュースでよかった?」
 八樹さんはドリンクの白いカップを上から覗き、半透明の蓋越しに、黄色っぽい方を僕の前に、黒っぽい方を自分の前に置いた。
「いただきます」
 小説の原稿と本三冊をテーブルの端に追いやり、座って手を合わせる。八樹さんはコーヒーらしき液体を勢いよく吸い上げ、はあ、と息をつくと、テリヤキバーガーの紙を剥きながら言った。
「で、どうだった? あなたの書いた小説は」
 一呼吸、瞼の裏で思い返す。
「面白かったです。すごく」
 具体的な、どの場面がどうだの、設定がどうだの、構成がどうだの主人公の変化がどうだのと、言うべきかとも思ったけれど、まず率直な感想を述べた。
「そうね。マーケティングでよっぽどヘマしない限り、かなり売れると思う。映画化する可能性も高いわ」
 八樹さんはさっさとテリヤキバーガーを平らげると、作業のようにポテトをどんどん口へと運んでいく。
「この才能は当たりよ。よかったわね」
 指先についたポテトの塩と油を紙ナプキンで拭いながら、八樹さんは片目をとじる。
 僕は答えかたがわからなかった。

 食べ終えると、八樹さんは腕時計を見ながら言った。
「読んでもらった『嘘か真か』は、来月ある新人賞で大賞を受賞して書籍化されるわ。それに伴って、受賞パーティー、雑誌での単独インタビュー、その他メディアへの露出が決定しているの。それまでに、内容はもちろん、根底に流れる思想や経験、これまでの執筆生活を、あなたの本物の記憶にしてもらわないと駄目なのよ――」
 なる、ほど。
「ちょっと答えてみて」
 八樹さんは真っ直ぐに座り直すと、腕を組み面接官のような眼差しで僕を見る。つられて姿勢を正す。
「この小説を書くのに、どのくらいかかりましたか?」
 当然の質問をされただけなのに、疑われているような緊張感が走り、足先が冷たくなっていく。
「ええと、半年、くらいです」
 面接官は首を横に振る。
「半年はかかり過ぎよ。実際のスピードはともかく、あんまり遅筆だと思われたら、業界に対していい印象を与えないわ。別の才能を追加していくことも考えると、平均か、少し速いくらいでないと」
「はい」
「次。現代社会特有の問題を描こうという意識は、ずっと持たれているものですか?」
「いえ、特には……書きたいと思ったことを書いているだけです」
 面接官はまた首を振る。
「天才ぶっちゃ駄目。狙ってやっている印象を持たせておくと、他の分野に手を出しても、偶然ではなく、わかっているからできるんだって思わせられる」
「すみません」
「もう次の作品は書いていますか?」
「……まだ、テーマを練っているところです」
 残念ながら、首はまた横に振られる。
「この質問には、状況がわからなくても〈書いている〉と答えて。出版社としては、一作目が売れたら世間が熱いうちにすぐ二作目を出したいものなの。それに人生で一回きりの、渾身の一作だったと思われてもいけないし。書きたいことがたくさんあって、休まず書いているアピールが大事ね」
 その後も質疑応答は繰り返され、八樹さんは音に反応して動く人形のように、僕がなにか言うたび首を横に振った。せかせかと食べたテリヤキバーガーとポテトも手伝って、質問されるごとに胃が重くなっていく。八樹さんが腕組みを解き、天井を仰いで息を吐く。落胆しているのか、怒っているのか、表情は窺えない。正面に戻された顔は、目を細め、左にだけ口角が吊り上げられていた。
「まあ、初日だから。心配しないで。時間はまだあるし、小説は本人もわからない、説明できない霊感によって書かれるものでもあるから。コツを掴めばすぐよ。なにもかも完璧に暗記する必要はないの。重要なのは、妥当な過去と人格の創造だから」
「……はい」
「留意すべきは、この才能だけが、あなたの才能ではないという点ね。追加されうる才能を考慮した上で、つまり人生にある程度の幅と余白を持たせつつ、文学の才能を獲得していなければならないってこと。マルチ、多才、天才であれるだけの根拠を秘めた人間を、今からつくっていきましょう」
「……すみません」
 打ち合わせ、と称された初日は、これで解散になった。原稿と本三冊は持ち帰って構わないと言われたので、鞄に入れる。鍵はスペアと交換し、キーケースに追加した。
「明日も同じ時間で。お疲れさま」
「お先に失礼します」
 頭を下げてドアを閉める。階段を降りる足は、力が入らず、無駄に大きな足音が鳴る。ビルを出ると、長く息を吸い、吐いた。肺一杯に、夜の冷えた空気が充填されればいいのにと思った。丸ごと中身が入れ替わってしまえばいいのに。けれどできたのは、蝋燭の火も消せないような、浅い呼吸だった。


      4


「おはようございま……す」
 部屋には八樹さん――ではなく、大学生のような女の子が一人、パイプ椅子に腰掛け本を読んでいた。
 女の子は驚いた様子もなく、本を閉じて立ち上がる。
「日辻さんですね。はじめまして」
「どうも……」
 八樹さんとは対照的な容姿。蝶が止まっても滑り落ちてしまいそうになめらかで、艶のある黒い髪。ピラミッドのような威厳と存在感を放つ八樹さんの鼻と比べたら、子どもが公園でつくる砂場の山ほど低く小ぢんまりとした鼻。肉を噛み切るには不向きそうな顎。そして、薄く漂う桃のような香り。光沢のないコットンのワンピースは、過ぎた夏の残滓のような藍色。
「今日から日辻さんのマネージャーを務めさせていただきます、水を飼うと書いて、ミズカイです。よろしくお願いします」
 水飼と名乗った女の子は、面接に挑む学生のようにはっきりとした口調で言うと、一礼をして着席した。僕も慌てて頭を下げる。
「はい。あの、よろしくお願い、します」
 席につき、向かい合う。
 弓道女が、遠く射る的を見つめるような瞳。
 僕が企業の人事部なら、迷うこと無く採用するだろう。
 下の名前は。年齢は。八樹さんは。これからなにを。質問が雪のように積もっていく。
 テーブルの上にはさっきまで読んでいた本。見覚えのある表紙は『寝ながら学べる文学史』だった。
「どうぞ」
 水飼さんはレポートらしきものを、僕の前に置く。同じものを水飼さん自身の前にも。伸ばした腕――七分袖からのぞく腕――は体温がなさそうで、手はマニキュアも指輪もしていない。どんな装飾品も、わざとらしく見せそうな肌。右の手首にある黒子が、人工物ではないのだと訴えている。
 左上がホチキスで留めてあるA4の紙は、十数頁に渡り「Q」ではじまり「?」で終わる短い質問文がびっしりと書かれていた。
「受験の極意は過去問です」
「はあ」
 返事をしたものの、状況がつかめない。
「訊かれる頻度が高いと予想される質問から、順にまとめてきました。この一つひとつへの最適解を導き出しながら、自身の小説及び文学全体への理解を深めていきたいと思います。そして、求められる人格と人生を構築していきましょう」
 水飼さんは電車の吊り革につかまるように、腕を持ち上げると、肘を直角に曲げた。握られた拳が正面を向いているので、どことなく締りが悪いものの「がんばろう!」を意味するポーズのようだ。
「はい」
 と答えて僕も倣う。用意された質問集にあらためて目を遣ると、昨日八樹さんから訊かれたことから、なるほどそういう切り口もあるかと感心するものまで、事細かく記されていた。十中八九、歳下だろうけれど、こういう人の部下になるなら、文句はないと思った。
 とりあえず持ってきたノートとペンを鞄から出す。
「しまってください」
「え?」
 ペンを握ろうとした右手が、空中で行き場をなくす。
「これから行うのは、あなたの記憶をつくる作業です。憶える作業ではありません。ノートに限らず、ゴールドである痕跡は一切残さないよう意識してください。一切です」
 逆らうことは、できそうになかった。
「……わかりました。でも、すみません、手を動かさないと、頭がまわらないんです」
 水飼さんは人差し指で下唇を押さえ、暫し目を伏せた後、
「それなら、この部屋だけで。持ち帰るのは禁止、普段は私が保管させていただきます。それでいいですか?」
 頷く。
「ではさっそく。第一問ですが――」
 僕の人生を上書きしていく作業がはじまった。

      *

 土日を除く、平日の十時から夜七時まで、延々と「仕事」は行われた。服装は自由なものの、教育係が水飼さんに変わって、多少気を遣うようになった。水飼さんは基本的にいつもワンピース姿。水飼さんにとっての正装なのだろう。
 就職経験のない僕にとっては、サラリーマンになった気分だった。就労時間は同じでも、何倍も頭をつかった自信はある。
 電機メーカーが他社の新製品を分解し、秘密を探るように、小説を事細かに解剖し、内容を理解した。それだけでなく、現代社会が抱える問題との関係、モチーフとなった過去の出来事、影響を受けたはずである作家や作品――それらとどのようにして出会ったのか。家庭環境や学生時代から導き出される、小説家を目指すことへの必然。他の才能を受け容れる余力を残し、伏線を孕みつつ構成していく。使える本当の過去はできるだけ使うが、新しい過去と重なる時間は慎重に検討して削除する。仕上げには、文中で使用されている漢字の読み書きと、同水準の漢字検定試験の学習。同じ文体での創作まで行い、時間内に書ききれなかった分は宿題となった。水飼さんは一緒になって考えてくれ、人格形成では整合性の判断も厳しく指摘してくれた。ノートは日毎にページを減らし、質問集には次々と取り消し線が引かれていった。
 昼休憩は一時間で、自由に過ごせた。どうぞ食べてきてくださいと言われるものだから、半月は言われるがままにした――領収書はいくらであろうと精算される。閉鎖された空間、ほぼ毎日八時間以上過しているので、いろいろな話をし、仲良くなれるだろうという期待は、膨大なすべきことを前に滑稽なほど現実化しなかった。
「お昼にしましょう」
 初顔合わせから二週間経った金曜日、十三時になると、いつもと同じように水飼さんは言った。ピークを避け、午前中に濃密な三時間を過ごすため、僕らの昼食は十三時だった。席を立ち、伸びをすると、水飼さんに訊いた。
「今日は、ここで食べてもいいですか?」
 あ、の口の形で止まった水飼さんは、一拍以上遅れて反応した。
「では、私は外に出ますね」
「いや、一緒に食べてもいいかな、と思って」
 鞄をつかもうとしていた水飼さんが、名前を呼ばれた犬のように顔を上げる。
「ええと、どうぞ」
 じゃあ、コンビニでなにか買ってきます、と言って僕は外に出た。水飼さんはいつもお弁当やら菓子パンやらを持参して、昼も部屋から出ずに過ごしていた。
 ナポリタンと野菜ジュースを小走りに買って戻る。
「お待たせしました」
 席につき、コンビニの袋から昼食をテーブルに並べると、同じものがもう一セット、鏡のように置かれていた。
 あれ。
 テーブルの上の二つのナポリタン、二つの野菜ジュース、二つの淡黄色の使い捨てフォークをしばし眺め、顔を見合わせる。
「こんなところで奇跡起こして、どうするんですか」
 水飼さんが吹き出して笑った。
 それが嬉しくて、僕も笑った。
「水飼さんは、小説はよく読むんですか?」
 やけに赤いウインナーをフォークに刺しながら、訊いてみた。
「人並みには、という程度です。それから――」
 水飼さんは穏やかな、これまでとは違うトーンで言う。
「私はマネージャーですから、丁寧な言葉を遣っていただかなくて大丈夫です。名前も呼び捨てでも」
 そう言われても、急に水飼と呼ぶ気にはなれなかったので、言葉遣いだけ砕けさせてもらうことにした。
「じゃあ、この仕事はいつから?」
「順番に、一問一答にしませんか?」
 玉ねぎばかり探して食べながら、水飼さんが提案した。意外だった。どうやら僕に興味はあるらしい。わかった、と頷く。
「日辻さんは、どんな本を読まれるんですか?」
「僕は……いまはビジネス書がほとんどかな」
「ビジネス書、ですか。例えばどんな?」
「次は僕から」
 あ、すみません。と水飼さんは玉ねぎを食べる。
 どうしてさっきから玉ねぎばっかり食べてるの? と訊きたくはあったけれど、そんな疑問に一ターンを消費するのは惜しいので、前の質問を繰り返す。
「この仕事はいつから?」
「実は、つい最近です。マネージャーを務めさせていただくのも、日辻さんがはじめてで。ビジネス書というのは、例えばどんな?」
「自己啓発とか、お金儲け系とか、あまり上品な感じのものではないかな。才能に、興味があってさ。列からはみ出ないことを推奨されてきたけど、でも世の中で称賛されているのは、自分独自の才能を発揮している人で。じゃあ、僕の才能は何なんだ。どう生きれば満足なんだ、僕も、他人も。そういうことばっかり考えてた。そのうち当たり前のように、世間が敷いたレールに従ってるみんなが馬鹿に思えてきて、ふつうに働くのも馬鹿に思えてきて、気づいたらだらだら生きてる僕が、一番馬鹿だったって。笑えないよね」
 水飼さんのフォークは、玉ねぎを刺したまま止まっていた。
「まさか、ついに才能が見つかったと思ったら、他の、本当に才能がある人の生け贄として、自分には才能があるかのように人前に出ることが、僕の才能だったなんてね。まあ、その才能も、確かかどうか、まだわからないわけだけど」
「残念、ですか?」
 旅行鞄のなかに入り、置いていかれると不安になっている仔犬のような顔で、水飼さんは言った。どうしてそんな目をするのだろうか。僕は努めて明るく返す。
「そんな才能でも、人の役に立つのなら、感謝しないとかな。お世辞にも裕福ではなかったからさ、富と名声を――八樹さんが言っていたとおり――手にできるのだとしたら、逃したくはない。お金があれば、お金に困ることは、ないわけだから。それに――」
「はい」
「認められることは、快楽だから。たとえ道化でも。この世界に、いてもいいってことだから」
 この日以来、僕らは一緒に昼食をとるようになった。

 月末の昼過ぎ、階段を上がってくる足音が聞こえ、水飼さんも僕も話をやめた。ドアが開く。
「どう、順調?」
 八樹さんだった。ジーンズにセーター姿ではあるけれど、リッツカールトンのラウンジにいても、おかしくなさそうな自信が漂っていた。手には金色のスタッズ付きの鞄。僕が立ち上がるのを見て、水飼さんも腰を上げる。
「いいのいいの、座ってて」
 水飼さんは隣の席に置いていた鞄を持ち上げ、自分の椅子の背凭れに掛ける。八樹さんは木槌で床を叩いているような音を立てながら部屋のなかを進み、空けられた席に着いた。見計らって、僕らも座る。
「久しぶり。少し痩せた?」
「まあ」
「隈もあるじゃない、大丈夫?」
「平気です」
 大学生のときの彼女が、母親のものを借りてたまにつけていた、シャネルの匂い。僕が好きじゃないと言ってから、拗ねて二度とつけなくなった――親子丼を食べながら言ったのだ、つけすぎだし、似合っていないと。
 横に並ぶと、あらためて水飼さんの小顔さと、各パーツの繊細さが際立った。神様は、恋をしているときに水飼さんをつくり、酔って気が大きくなったとき、八樹さんをつくったのではないか。
「あんまり無理させちゃ駄目よ、ユウコ。うちの期待の新人なんだから」
「だからこそ、一所懸命やってるの。お姉ちゃん」
 ユウコ。思わぬところで、水飼さんの名前が知れた。しかし、それはともかく、
「お姉ちゃん?」
「ユウコ、言ってなかったの? 私たち、歳は少し離れているけど従姉妹なの」
 八樹さんは携帯電話で自撮りをする女子高生のように、水飼さん側へ頭を倒す。
 何の言葉も発せなかった。頭を戻した八樹さんは、僕の無反応を気にした様子なく、話をつづける。
「今日は二つ用事があって来たの。一つ目は、本番も近づいているから、質疑応答の完成度をテストさせてもらおうと思って」
 反射体に水飼さんに視線が動く。水飼さんも僕を見ていた。
「二つ目は?」
 水飼さんが訊く。
「それは、テストが終わってからね」
 足先に急に冷えを感じる。胃のなかで、蟻が動き回っているような不快感を憶える。
「大丈夫ですよ」
 水飼さんが小声で言った。遊んでいたわけではないことを、僕なりの努力を、水飼さんの仕事ぶりを、証明したいと思った。
「それじゃあ、始めるわよ」

 新人小説家としての擬似インタビュー、単独での受賞スピーチ、雑誌での選考委員との対談の想定会話。心臓の煩さが気になったのは開始直後の数分だけで、話し始めると、ともすれば気持ち良ささえ感じていた。
 どうしてだろう。
 自分の声、答えが口から耳に達するたびに、体内で自信の水嵩が増していった。
 どうしてだろう――すべて嘘なのに。
 否、すべて嘘だから?
「エクセレント、完璧ね」
 ラウンドを終えたボクサーのように、僕は椅子にのけ反る。八樹さんは芝居じみた拍手をした。水を何口も飲む。喉よりも脳が水分を欲していた。
 目が合った水飼さんは、眠る猫のように微笑した。その顔に、僕は一瞬で疲労を忘れる。
「強いて言うなら、もう少し自信なさ気でもいいかしら。答えにつまったり、すぐに言葉が出てこないくらいの方が自然ね。でも、それだけ期待以上だったってこと」
 なお喉を潤しながら頷く。
「話すだけじゃなくて、短いエッセイくらいなら、もう同じ文体で書けるんだから」
 当然のように水飼さんが言う。
「それで、二つ目の用はなに?」
 八樹さんは鞄から二つ折りにした紙を一枚取り出した。テーブルの中央に開いて置く。

 未野 学

「あなたの名前よ」


      5


 未野学は、すえのまなぶ、ではなく、ひつじのがく、だった。
 未野と書いて、ひつじの。音に「ひつじ」と入っていると馴染みを感じるだろうから、とのこと。
 水飼ユウコのほうが、よほど芸能人の名前として相応しい気がしたけれど、ともあれ僕はいよいよ別人になった。神に近づいた、というべきだろうか。
 名前をもらった後も、変わらず未野学になるための特訓はつづけられた。変化といえば、水飼さんが「ひつじのさん」と呼ぶようになったことくらい。
 一週間後、予定通り未野学は大手出版社の新人賞を受賞し、その後、授賞式に招待された。
「ひ、未野、学です」
 授賞式の壇上で、名前を言ってからの記憶はほとんどない。僕は自動運転だった。拍手の音。カメラのフラッシュ。スピーチは練習どおりに行えたらしい。いくつかの質問にも答えたはずだ。けれど後日回想しても、網膜に焼きついているのは、嘘くさい屏風の金色だけだった。
 幾度も出席することになる催しやパーティー、会合のことを考えて、未野学は下戸ということになった――もちろん、つまらないことを、つい話さないために。もともとカクテルや軽いワインしか好きではなかったので、丁度良かった。下戸でして、と言うたびに、本当に自分は一滴も飲めないような気がしてきた。
 雑誌での対談も、水飼さんとのシミュレーションどおり問題なく済んだ。相手は最終選考委員のベテラン作家で、失礼がないよう何冊もある代表作を、水飼さんと手分けして読んだ。素人よりも一、二段階は深い理解での感想を言えるようにした――当日は未野学の話ばかりで、成果が発揮されることはなかったものの、水飼さんとの共同作業は好きだった。
 同世代からはBプラス査定の僕の容姿も、文壇の世界ではうけがいいらしく、出版社も顔写真付きで、受賞作の告知に力を入れた。内容も申し分ないこともあり、半月と待たず重版の報せを受けた。
――この小説を書くのに、どのくらいかかりましたか?
「『嘘か真か』に限らず、いつも、一、二ヶ月で一気に書き上げて、そこから直していく感じです。推敲にも同じくらいの時間がかかるので、結局、三ヶ月半くらいだと思います」
――後で直すにしても、一、二ヶ月で書き上げてしまうんですね。
「はい。とりあえず頭のなかにあるものを、一気に出し切ってしまうようにしています。面白いのかどうか不安になっても、とにかく進めて終わらせます。全体が見えれば、直す部分も明確なので」
――さらっと言われましたが、それはプロの発想です。やはり才能がある人は本能でそうするのだと感心しました。
「そうなんですか」
――連載が始まると、後で直そうと思っても先に進まなければならないので、苦労するかもしれませんが、未野さんなら大丈夫です。
「ありがとうございます。頑張ります」
 どこで、誰に、なにを話したのか、日辻としての記憶はすぐに曖昧になった。反比例するように、未野の僕の思考はクリアで、迷いはない。
――新人賞を受賞された『嘘か真か』では、現代人の底無し沼のように見える欲は、実はすぐに満たされるほどのものでしかなく、最後に残るのは人と人との関わり、そして自分自身のこころの成長なのだ、というテーマだったように思います。違いますか?
「あの物語からなにを受け取ったかは、読者の方に委ねます」
――現代社会特有の問題を描こうという意識は、ずっと持たれているものですか?
「この世界には、すでに読み切れないほどの名作小説があります。それなのに、僕が書く意味はどこにあるのか。そう考えたなら、やはり〈今〉にしかないのではと思っています。〈今〉の人間を描く、それが唯一、僕が過去の文豪と肩を並べられる方法ではないかと」
――もう次の作品は書いていますか?
「はい、書いています。書いていますが、二作目を出すのは一作目よりも怖いです。一発屋だと思われたくありませんから」
 繊細だけど健康的、親しみやすいけどミステリアス、そういった印象や雰囲気で統一しようということで、ブルージーンズにグレーのカットソー、黒いジャケットに革靴が未野学の制服になった。
 会食の予定も入っていったので、和食、洋食、中華、鍋や立食パーティーにおけるマナー教育も行われた。お陰で未野学はどこに顔を出しても褒められる。先生と呼ばれる。みんな話を興味深そうに聞く。やがて僕はなにも意識しなくなる。なにを訊かれても、九九のように即座に答える。苦手な段もない。
「来月からはもっとアップするから、たのしみにしておいて」
 そう言って手渡されたはじめての給料は、一ヶ月間の収入として人生最高を大きく上回るものだった。

 行動と影響には時差がある。
 未野学がデビューし、各種メディアからの取材やインタビューを受けても、一般人が目にするのは暫く経ってからだ。自分自身も。本屋で、電車で、インターネット上で、ちらほら自分の顔を発見するたびに、ゲームではないのだと思い出す。けれど同時に、現実感もなぜだか失われていった。他人事だった。
 本は驚くほど売れた。
 各編集者との打ち合わせは、最初の顔合わせ以外、すべてメールで行った。僕は関与しない。僕の仕事はただ、人前に出ることだ。万が一編集者と偶然会ったときのために、メールの内容や作品の進行状況については水飼さんから聞いていた。
 次回作の原稿が届いた。
 水飼さんと再び読み合わせをする。
 二作目も売れるだろう。
 銀行振込になった給料は、さらに倍になっていた。

      *

「次の才能をリリースするわ」
 会議室に入ってくるなり、八樹さんは宣言した。新刊発表に伴うインタビューの確認をしていた僕と水飼さんは、顔を見合わせ、そしてなにも言わず八樹さんに目を遣った。
「画家、未野学のデビューよ」
 ……絵、か。
 デッサン、芸術史、各種道具の名称、現代アートの概念の理解が学習内容に追加された。
 アートの世界は水飼さんにも手に負えないらしく、本人のもとへ何度も通い、見聞きしたことをまとめて僕に伝えてくれた。小説の場合と同様に、僕が本人らと顔を合わせることはない。水飼さんがいない間、会議室で一人、デッサンをし、書籍で学ぶ。
「すごい。もう文学については、私のほうが生徒ですね」
 画家としての才能が加わってからまだ数日のとき、他の作家との対談シミュレーションを終えるなり、水飼さんはうっとりとした目で呟いた。
「アートのことはまだ、さっぱりだから、水飼さんには居てもらわないと困るよ」
 読点ごとに息を吸い、ゆったりと伝える。水飼さんの表情を、よく憶えておきたいと思った。
「しっかり吸収してきます。でも、大丈夫ですよ。ひつじのさんには才能があります。素晴らしい才能だと思います」
 返事をするかわりに目を細め、懐かしむように、水飼さんを見つめた。

「あの、未野学さん、ですよね?」
 街で顔をさすようになった。握手をしたり、一緒に写真を撮ったりする。被写体になるレッスンもあったので、僕はいつでもうまく笑える。同じ顔ができる。
 昔は「お金があったら」という想像をよくした。それがいざ中途半端な大金を手にしてみると、完全に持て余した。
 服を買うにも、衣装が決まっているので、週に一日二日のプライベート用ということになる。何着か購ってみたものの、着用機会がないのでやめた。夢のような外車を買うほどのお金はまだないし、事故を起こすと面倒なので、運転は禁止されている。靴は最高級といわれるものでも、案外二十万円くらいしかしないのだとはじめて知った。三足もあれば十分だし、事務所側で用意してくれた。あとは……腕時計だ。そうだ、イメージがあるので、八樹さんに相談しなければならないけれど、せっかくならいい腕時計を買おう。三百万円くらいする。
 忙しいといっても、手帳が真っ黒になるほどではなかった。まとまった休みこそないものの、平均して週に二日は休みがあった。
 休日は寝て過ごした。たまに日辻に戻っても、なにをすればいいのかわからなくなっていた。
 ワンルームの部屋。空間の三分の一を占拠するベッドに仰向けに寝たまま、じっと天井を見る。日焼けに無防備だった老人の背中のように、大小様々なシミが木目に広がっている。
 シミを数えるでもなく、じっと見る。
 日辻の携帯電話は解約した。未野学の番号は、両親にも教えていない。
 もし解約していなければ、今ごろ「未野学はお前なのか?」というメールが、いろいろな人から届いただろうか。もし訊かれたら、どうしていただろう。
「そうだよ」と返そうが「違うよ」と返そうが、どちらでもいいように思えた。眠るだけのこの部屋は、不完全な僕の形跡が残っていて居心地が悪い。

「日辻さん? あ、また?」
 久しぶりに会う大家さんは、玄関を開けるなり、明らかに不快そうな顔をした。このタイミングで訪ねるときは、決まって家賃を待ってもらうお願いだった――僕を未野学と結びつけている様子はなかった。
「いえ、今月分を渡しに来ました。それと、月末で部屋を出ようと思うので、挨拶に」
 茶封筒を差し出す。すべて新札なので、二十枚以上入っていてもさほど膨らみはない。大家さんは二、三回、口を「あ」と「い」の形に動かしながらも、なにも言葉は発しない。
「お世話になりました」
 そう言うと、ようやく「ちょっと」と大家さんは声を出した。そして封筒の中身を覗いて止まる。
「いくら……?」
「修繕費もろもろ含めて、三ヶ月分入れてます。足りませんか?」
 どこか隠すように再度、封筒に目を落とすと、
「だ、大丈夫よ。……どうするの? というか、どうしたの?」
 僕は用意していた言葉を、読むように伝える。
「実家に戻ろうと思って。お金は親が送ってくれました」
 大家さんは封筒をズボンのポケットにねじ込みながら、あくびをするように大口を開けた。
「ああ、ああ、そう。そうなの」
 謎が解けた顔。あるいは、僕になにか幸運があったのではないことに、安心しているような。頭を下げて去る。肩を落とし、猫背気味に。見送る大家さんは笑顔だろうか。仮にそうだとしても、僕ほどではないだろう。

      *

「いつもこんなことしてるんですか?」
 七、という女の子が上目遣いで言った。僕は首を横に振り、密着するほど七を抱き寄せる。汗ばんだ僕の体を嫌がることなく、七も胸を、顔を、押し付ける。セックスをしたのは久しぶりだった。
 七は昼のサイン会のスタッフだった。会場となった大型書店の書店員。控室で挨拶をした。軒下の風鈴のように涼しげな一重。赤いピンで留められた栗色の前髪は、額の前で扇をかざしたような弧を描いていた。
「本屋で働いていて、良かったです」
 一言目に、涙を溜めながら告げられた。僕の本がいたくこころに響いたそうだ。
 会が無事に終わった後、七に名刺を二枚もらい――僕は名刺を持っていない――、一枚にホテルの名前と部屋番号を書いて渡した。打ち上げに食事でも、と囁いて。
 七は来た。
 そして、最終的に僕らは同じベッドで裸になった。
 腕のなかの七に訊く。
「僕のどこが好き?」
 七は僕の鎖骨に唇を押し当て、寝言のように呟いた。
「繊細な、才能」
 僕は覆いかぶさるように体を回し、数時間前に出会った女性に、今晩何度目かのキスをした。


      6


――小説もすごく面白かったんですけど、絵も感動しました。はじめ未野さんの絵だって知らなくて。その才能、ちょっと嫉妬しちゃいます。
「才能なんて、ないです。これでも努力しているんですよ」
――どうすれば未野さんみたいになれますか?
「自分を信じろ、とよく言いますけど、僕は反対だと思っています」
――どういうことですか?
「自分を忘れればいいんです。自分は何者なのか。なにができて、なにができないのか。そうすれば、その器には何だって入ります」

 三百万円貯まったので、腕時計を買った。
 歴史上の天才たちが愛したブレゲの、クラシックな三針モデル。ふと祖父のことを思い出した――もう十年以上会っていない。中卒で四十五年勤めあげ、人生で唯一自分に許した贅沢が、父が生れたときに購ったセイコーロードマーベルだと聞いた。ゼンマイを巻く姿が恰好良かった。鏡の前でブレゲのゼンマイを巻いてみる。祖父の面影はどこにもなかった。
 僕にはさらに映画批評の才能が加わった。
 これで三つ。
 テレビへの出演も増え、稀有な才人の立場が確立されていった。なにかを発表するたびに、注目を集め、社会からの期待をうけた。
 本人たちと報酬は折半なのか、僕の方が多いのか、それとも少ないのか、知らされていないけれど、毎月使い切れないお金が入金された――八樹さんがどのように才能を探し、集め、交渉しているのかは、一切不明だった。水飼さんも、どこにいるどの才能のもとに通い、情報をまとめているのか知れない。

 3LDKのマンションに引っ越した。前の部屋の私物はみんな処分し、新居には未野学の稼ぎで買ったものしかない。
 大学の入学祝いに母親が奮発してプレゼントしてくれた、ノンブランドの百貨店スーツは捨て、値札も見ずゼニアで買ったスーツをクローゼットに仕舞った。高校生のとき、人生で一度きりの海外旅行――修学旅行先のオーストラリアだ――で買った、木製のブーメランは捨て、どこかの社長夫人から貰った、幾何学模様のエルメスの大皿を飾った。中学生のときにお年玉すべてを費やして手に入れた、モーリスのアコースティック・ギターは捨て、マーティンのギターを置いた――もう弾けないし、一度しか触っていない。小学生のとき母親の実家で撮った家族写真は捨て、壁にはピカソの版画を掛けた。卒業アルバムは捨て、未野学について書かれたり、写真や文章が掲載された雑誌を並べた。マックも買い換え、昔の彼女や仲間との写真データは移行しなかった。
 どんどん上書きされていく。
 パズルゲームのように、三つの才能の必然を過去の文脈に嵌めこんでいく。放送されたり、活字になった発言はすべて保存し、矛盾が生じないように記憶をつくりなおしていく。
 複雑になってきたので、移動中やインタビューの待ち時間、水飼さんが側にいるときは、預かってもらっている、僕について書かれたノートを出してもらい、見返すのが習慣化した。
 未野学は、僕にはできないことを、自由になんでもやってのける存在だった。
 僕がずっと欲しかったものなんて、――才能を除けば――全部合わせても二百万円くらいのものだった。時計を入れても五百万円。大金には違いなかったけれど、手に入れてしまえば、その瞬間に輝きが失われてしまうようなものばかりだった。

 二メートル近くある書斎の本棚には、小説や思想書、哲学書ばかりが並んだ。ビジネス書や自己啓発書の類は一切ない。僕が自分で選んで置いた本は一切ない。DVDや、CDも同じ。未野学がこれまでに読んだ作品、影響を受けた映画、こころの糧としたミュージシャンのレコードやアルバムだけがある。
 繁華街に面した大き過ぎる窓のお陰で、夜でもカーテンを開けていれば小さな光が入ってくる。よく電気をつけず、いくつもの金色の粒をソファーから眺めた。
 人といない日は、明け方まで小説を読み、映画を観た。未野学を濃くするために。僕に与えられたらしい才能のために。
 関係者の間で未野学の下戸は浸透していた。ただ一度、雑誌社の人がそのことを知らずにシャンパン――ペリエ・ジュエのベル・エポック――をプレゼントしてくれた。せっかくなので持ち帰り、家で冷やして一人で飲んだ。ボトルを空けベッドに倒れると、めずらしくすぐに眠れた。その日以来、通販を利用してシャンパンを常備するようになった。

 物欲は失くなっても、性欲が満たされることはなかった。むしろ、いっそう欠乏していった。
 僕の左肩を枕にし、満足気に微笑している美人に訊く(名前は訊いたけれど忘れてしまった)。同じ質問ばかりし過ぎて、誰にして、誰にしていないのかもわからなくなってきた。それでも、口にせずにはいられない疑問。
「僕のどこが好き?」
 期待する。いつもとは違う、別のなにかが出てくることを。塵と埃に覆われた夜空で、流れ星を探すように。
「あなたの――」
 報われた経験はない。

      *

 映画批評はあまり評価されなかったものの、小説と絵は順調だった。絵は海外でも高い評価がされていると聞いた。アートが中心になった水飼さんの授業は、日を追うごとに力がこもっていった。
「いいえ、この絵のメッセージはそうじゃありません」
 会議室でパソコンの画面に映る絵に対し、水飼さんは訴える。
「この女の子の目が捉えているのは、解決されない内面の怒りなんです」
 本人からの受け売りなのか、それとも自身の解釈なのか、水飼さんは断定的に、確信を持って言う。ペンを動かすも、僕にはほとんど意味がわからない。
 十四時に集合し、十九時まで五時間、ひたすらこれまでに発表された絵の意図や、芸術観を詰めこんでいった。
 オフホワイトの会議用テーブルを挟んで向かい合った水飼さんは、なめらかな黒のニットワンピースで、肉体の曲線をいつもより露わにしている。
「よかったら、このあと食事でも」
 角が折れ、手垢で黄ばんだノートを手渡しながら誘った。両手で受け取り、鞄の恐らくは定位置にノートをしまうと、水飼さんは頭を下げた。
「すみません、これから……彼と会う約束があって……」
 部屋の空気が一瞬で枯れ、腐臭が漂う。厭な感じ。磁石が砂鉄を集めるように、あらゆる断片が一つの違和感を形成していく。
「そっか。彼ってさ――」
 水飼さんはうつむいたまま。
「画家?」
 再度、頭を下げて僕の前からいなくなる。


      7


 照明の光で輝いて見える一人掛けのソファーに腰掛け、対談が始まる。朝の連続テレビ小説に出演している新人女優と、ハの字型に向き合う。微笑。僕から。一方的に知っている存在に直面したときの、悪寒に似た感覚は、デビュー直後に消失していた。緊張は他人事ではないからこそ、襲い来るのだ。
「小説家としてデビューし、現在では画家、映画批評家としての顔も持つ未野学さんですが、まだまだ他の分野にも挑戦される予定なんですか?」
 くの字に倒された女優の脚に目を落としながら、この質問は想定していたな、と思う。ファンの方々がもっとよろこんでくださるような、可能性という光を感じていただけるような活動ができればと考えています。もちろん、小説、絵、映画批評という分野を深めていきながら――。けれど僕の口は、嘘をつく。用意していた嘘の嘘の本当を。
「知りません。するんじゃないですか」
 僕以外の全員が、空気を喉に詰まらせたような顔をする。頭を掻きながら水飼さんに目を遣ると、片手を耳に、片手を口に当てて電話をしている。
「ち、直感に従う、という感じですか? 私も直観をすごく大事にしています。迷ったときは、理屈よりも直観に従おうって――」
「ふつうのコピー用紙を四十三回折ったら、どれくらいの厚みになると思いますか」
「え?」
「直感でいいので」
「十メートル、くらい、ですか?」
「月にとどきます。人間の血管をすべてつなぎ合わせると、どれくらいの長さになるとおもいますか。直感的に」
「百メートル……」
「地球を二周半する長さだそうです」
 対談相手は怒りと悲しみが同じ力で引き合った末、奇跡的に均衡がとれたような複雑な表情をして、責任者らしき男を見る。すぐに男は駆け寄り耳打ちをすると、元いた場所へ戻る。先ほどまでとは異なる、敵意を感じさせる輝いた目で、若い女優は僕を見る。
「未野さんの、モチベーションの源泉はなんですか?」
「お金、だったんですけど、最近は女性ですかね」
 つま先から、ふくらはぎ、太腿、腰、胸と視線を移動させながら笑いかける。期待以上の表情が返ってくる。
「絵は海外でも高い評価がされていますね」
「そうみたいですね。でも次はもっと違うタッチや世界観のものも出したいと思っています。まるで、別人のような――」
 インタビューが終わったときには、水飼さんの隣に八樹さんがいた。残念ながら、女優さんを食事に誘う暇はなかった。

「どういうつもり」
 連れていかれた日本料理屋の個室で、八樹さんはようやく口を開いた。近代兵器のような鼻は、いつもよりいっそう凶暴に見える。
「用意していた内容忘れちゃって」
「本当のことを言いなさい」
 息がかかった店なのか、それともひどく忙しく構われていないのか、部屋に通されてから鶯色の着物の女性が、塗盆におしぼりを乗せて持ってきて以来、誰もなにも聞きにこない。
 絵を描いているわけがない、自分の潔癖な爪表面の、皺のような縦線を眺めながら言葉を探す。なにも答える前に八樹さんは、返答への返答を先回りして告げる。
「駄目よ」
 僕はいっそう黙る。その行為は、相手に文脈の理解が正しいことを、確信させるだろう。
「どういうつもり?」
 ふりだしに戻る。二周目にしてようやく言葉が会話に追いつく。
「最近、やってみようかなって。絵でも、小説でも」
「あなたに才能はない」
「赤裸々エッセイなんて手も、ありますね」
「……終わらせる気?」
 鼻息が聞こえる。僕のではない。あれだけ立派な鼻孔をして、空気が出入りする音を耳にしたのは、そういえば初のことだった。次に放つ言葉を捻りだすこともせず、恩人の心中を忖度することもせず、僕は受け身で時間のなかにいた。八樹さんが目を瞑る。
「違約金、いくらかわかってる?」
 そして宣告された金額は、これまでに得たすべてを失うのに十分だった。


     8


 八樹さんだろうか、水飼さんだろうか。
 裏向きに置いた携帯電話が、絶頂に達した女性のように、何度もテーブルの上で短く身を震わせる。色気のない低いモーター音。
 濃紺のソファーは革張りの二人掛けで、クッションは赤ん坊の頬に座るように柔らかい。背凭れは、膨らみはじめた少女の胸に抱かれるようで、癒される。どちらも人工的なスプリングの存在を一切感じさせず、同時に、いまこの瞬間以外の人生の存在を、甘いカクテルの酔いがまわるように、ゆっくりと、ゆっくりと、忘れさせてくれる。
 金塊を水に溶かしたような黄金色、極小の真珠のように連なって上昇しつづける泡。チューリップグラスの首を持ち、クリュッグを喉に流し込む。六杯目の、最後の一杯。
 売れるものはみんな売った。
 ゼニアのスーツも、エルメスの大皿も、マーティンのギターも、ピカソの版画も、マックも、ブレゲの腕時計も。銀行から預金もすべて引き出した。全財産をガラスのテーブルの上に積む。並の人なら狼狽するだろう光景を前に、浮かぶ感情は不思議なほどなにもなかった。会ったことのない親族の、仏前にいるかのような。
 何時だろうか。
 もう数時間こうしている気もするし、まだ十数分しか経っていないようにも思われた。
 部屋には置き時計や壁掛け時計もなく、鳴り止まない携帯電話を見る気にもなれなかったので、テレビをつけた。
 その映像を、僕は生涯忘れないだろう。
 見たことのない男が三人と、水飼さんが映っている。水飼さんは僕のノートを手にしている。
 みんな嘘でした。
 証拠はここにあります。
 ここにいる彼らが、本当の才能の持ち主です。
 一語一語の隙間に、カメラのシャッター音が挟み込まれ、四人の若い男女はフラッシュの光で白く輝いている。
 テーブルの上の札束を鞄に放りこみ、家を出た。
 迎えに行かなければならない。
 鍵もせず夜にまぎれる。

 僕が還ってくる。


(了)

イデトモタカ