NOVEL

地下鉄の七分


 ティファニーの紙袋が揺れている。葉書ほどの小さな紙袋。時を刻むように、電車の震動に合わせてゆらゆら、靴の上を漂う。
 最も高貴なブルーと、最も由緒あるグリーンから生まれた愛娘のような色。ロビンズエッグブルーと言うと、銀色のリボンを結びながら、黒髪の似合う店員が教えてくれた——唇の左隅に黒子があった。
 そして、この紙袋を貰って喜ばない女性はいないとも。
「そうですか」
 僕はわざと素っ気なく答えた。
 ヒヨコをモチーフにしたシルバー製のチャームを買った。あまり気を遣わせず好意をかたちにするには、間の抜けた顔のヒヨコが、とてもちょうどいい具合に思われた。
 紙袋から伸びる白い紐の先は、右手中指の付け根にかかっている——中には紙袋と同色の小箱が入っているだけで、重さは感じない。広げた両手の上で本を開いている。
 同じ車輌には十人と乗っていない。僕を含めそれぞれが指定席のように、長椅子の端を陣取っている。窓の外は薄暗い。夜の闇ではない。目を凝らして見えるのは、灰色の壁と電灯、暗号のような文字。おもしろくもなんともない。車内は週刊誌やファッション誌、美容液や生命保険の色とりどりの広告だけが騒がしく、人は静かだった。
 手元に目を落とす。クミン族の男たちに伝わる格言集。右の頁には大きな明朝体の文字で一言、左の頁はクミン族を研究する筆者の解説になっている。右頁だけを読んでいく。


 孤独を愛せよ。孤独は双子の弟なのだ。
 狩り(仕事)が決断を養う。決断が男を育てる。
 本気で生きろ。そうすれば、友ができる。


 どのことばも鼓動を速くする。血流が増し、額の血管がどくどくと浮かび出す気がする。言葉だけではなかった。モノクロ写真のクミン族の男たちは、戦士と呼ぶに相応しい膨らんだ大胸筋、子どもが三人も四人もぶら下がれそうな野性的な腕をしていた。常に死と同居しているかのような目は、僕をいっそう不安定にさせる。それでいいのか、と変化を促す。
 向いの扉が開き、風が顔に、手の甲や指にあたる。今朝、家の前で見た鳩のように肩を持ち上げ、マフラーのなかに首をうずめる。
 乗客は五人だった。二人が空いている椅子の角をとり、二人が仕方なくそれぞれ真ん中付近に腰を下ろす。
 一人は扉の前に立った。なにも見えない窓に顔を向けて。
 僕のすぐ隣。
 扉が閉まり、電車が動きだすと同時に、香水の匂いがした。匂いの表現は難しい。ソムリエのような語彙力もなければ、花の種類にも詳しくないので平仮名に喩えると、「あ」や「お」のような明るさや溌剌さではなく、「さ」や「ふ」のような、やわらかさの奥に涼しさを感じる匂いだった。
 顔を上げる。
 微笑んでいた。
 視線に気づいてはいない。絵本で描かれる人魚のように、ウェーブした栗色の髪、二重の大きな目、わずかに赤くふくらんだ頬、少女でも大人でもない女の子は、眠る仔犬のように口角をやわらかく引き上げていた。瞳は今を見ていなかった。灰色の壁をたのしんでいるわけでもなさそうだった。
 触れたい。
 頬に。
 指に。
 耳に。
 唇に。
 ごとっ、と座席が揺れる。幸運のブルーの紙袋が左に振れる。
 匂。
 息苦しいと思ったら、呼吸が浅くなっていた。正面に向き直り、ため息のように、体から古い息をすべて吐き出す。それから潜水する前のように目一杯、肺をふくらませる。
 がらがらの車内。向いの席、ベージュの野球帽を被ったブルドッグ似の老人は、競馬新聞とセカンドバッグを脇に抱えて眠っている。
 視線のない安心と静寂が、ふだんなら聞きとれないはずの、僕のなかの動物的な囁きに気づかせ、従わせた。
「あの、」
 声をかけた。無計画に。無戦略に。予想外の主人の行動に心臓が驚く。我先にと逃げ出そうとする。
 女の子の目は相変わらず夢を見ているかのように、なにもおもしろいところのない、灰色の窓の外を眺めていた。耳から垂れる一本の赤い紐が、コートのポケットのなかに吸い込まれている。
 なにを聴いているのだろう。
 女の子の音が閉じられているのを、僕は本当に知らなかったのか、それとも気づいていたからこそ、らしくない勇気を発揮したのかわからなかった。とにかく、僕の声は届いていなかった。
 逃げる必要がないとわかった心臓は、徐々に平静を取り戻していく。目を閉じて呼吸を整える。
 なにをしようとしているのか。
 似合わない、似合わない。
 車掌のアナウンス。
 電車が止まる。
 駅に着いた。
 降りる人が同じ車輌から二人。乗客はいなかった。外気が顔の火照りを冷ます。耳がひんやりとして気もち良い。扉が閉まる間際、ひゅう、と風が入り込み、力なく持っていた手のなかの本の頁を、ぱらぱらとめくった。
 電車が咳込むような音を発し、動きだす。次で終点だった。
 視線を本に落とす。


 勇敢とは、未知の世界に飛び込むことだ。
 変化の波に身を投じない者は、戦士ではない。


 中学三年の卒業式のとき、靴箱に手紙が入っていた。ルーズリーフの切れ端に、どこそこで待っていますと丸文字で。けれど僕は行かなかった。逃げたのだ。待っているのが素晴らしい未来だとしても、求めていない変化に、未知に、怖気づいたのだった。
 高校でも似たようなことはあった。気の合う女の子がいて、容姿も好みで——鼻が小さく、猫目で、髪はいい匂いがした——、仲のいい誰もがお似合いだ、相思相愛だと、僕に決断を迫った。けれど、ついに僕は決定的な行動を起こさなかった。三年にはクラスだけでなく教室のある階も変わり、大学受験も手伝って見かけることさえ稀になった。
 卒業式を終え、中庭で写真を撮りあったり、別れを言ったりしているとき、図らずも一瞬間、目が合った。相手は逸らさなかった。僕はなにか言いかけて、結局、目を伏せた。
 使い捨てカメラの残り枚数が一枚になったとき、その子を探した。他のクラスの男の子たちと、肩を組んで笑顔で写真を撮っているのを見て、僕は帰った。
 最後の一枚は、路駐している車の下で寝ていた野良猫を撮った。
 頭のなかで、クミン族の半裸の男が、鋭い目で僕を見る。戦士とは腕力ではない。筋肉でもない。ましてや狩りのうまさや闘争力でもない。戦士とは——。
 コートの左ポケットの携帯電話が震動する。半身だけ抜き出す。彼女からだった。
 目を閉じて、息を煙草のように一吸いし、仰ぐように頭を座席に倒す。
 目を開ける。
 目が合った。
 女の子と目が合った。今度の僕は、目を逸らさなかった——固まって、動けなかった。女の子の視線は、僕の目から、手元に移り、そうしてまた、僕の目に戻ってくる。
 試されているのだろうか。
 誰に。
 神様に。
 女の子に。
 クミン族に。
 お前は戦士か。
 共通点を持った記憶の瞬間瞬間が、スナップ写真のように無数の小さな一枚になり、脳内に散らばっている。中学校の制服。卒業証書の入った黒い筒。白に近い灰色の下駄箱。ルーズリーフの切れ端。罫線を無視して書かれた丸文字。校門へ向かって走る背中。高校の階段。上履き代わりの臙脂のスリッパ。教室の椅子に横向きで座り、あの子と話す僕。クラス発表の掲示板。あの子の名前がない三年の出席表。最後の日の中庭。一枚残った使い捨てカメラ。他のクラスの男子と肩を組む横顔。雲のない空。猫。
 姿勢を正す。
「あの、」
 僕が言う。
 女の子がイヤホンをとる。
——ともだちになってくれませんか。
 そう言おうとした、はずだった。けれどその台詞は複雑過ぎた。気がついたら僕は、
「好きです」
 と言っていた。
 目の前の、初対面の女の子の表情は変わらなかった。この世界にいないような目をして、薄い唇で微笑していた。僕の心臓はここから出せと言わんばかりに、どん、どん、と胸を叩く。視界の端で、カウントダウンのように、黄色っぽい光の電灯が流れ去っていく。四、三、二——。
「だったら」
 女の子が口を開いた。雪の朝のような、澄んだ声だった。
「それをわたしにください」
 細い人差し指の延長線には、女性なら誰でも喜ぶ紙袋があった。爪は指先をなぞるように弧を描き、薄桃色をしていた。
 体の反応は迅速だった。全身が粟立ち、心臓はまるで火にかこまれたかのように、助けを求めて胸を激しく叩く。苦しくなってようやく、呼吸が止まっていたことに気づく。体感速度としては秒速数センチメートルほどで、視線を女の子からブルーの紙袋に向ける。隙間から同じ色の小箱がのぞく。
 終点の車内アナウンス。
 減速し、扉が開く。
 だったら、それをわたしにください。だったら、それをわたしにください。だったら、それをわたしにください。だったら、それをわたしにください。だったら、それをわたしにください。だったら、それをわたしに——。
 匂いが遠ざかっていく。
 クミン族の男の目。ルーズリーフの切れ端。残り一枚の使い捨てカメラ。
 考えるのをやめた。
 本を閉じ、追いかける。
「すみません、これ——」
 頭を下げ、握手を求めるように、僕は女の子の背中に紙袋を差し出す。
 僕よりも、少しだけ温かい指の感触。指輪を外すように——わざと指に触れながら——、そっと紐を奪っていく。
「ありがとうございます」
 女の子の声。
 顔を上げる間もなく、
「誰?」
 男の声。
 凍りつく。
「電車に忘れた荷物、届けてくれたの」
「また無駄遣いして」
「ふふふ」
 声と、匂いと、二人分の足音が、遠ざかっていく。
 糸が切れたように、脱力して、腕を下ろす。うつむいたまま、長い、長い、息を吐く。
 顔を上げると、いつもの、いつもどおりの、駅の階段がある。また左のポケットが震動する。
 抜き出し、緑色のボタンを押す。
「いま、駅に着いたよ」
『なに笑ってるの』
「別に」


(了)

イデトモタカ